「正義」は、少なからず自分勝手なところがあるもの
市原隼人さん(以下、市原):作家の司馬遼太郎さんが著書で、幕末の人斬りとして知られる岡田以蔵のことを”不幸な子が生まれた”と書いているんですが、今回演じた男の人生もそのように感じました。不幸な宿命(さだめ)を背負わされ、「どう足掻いても変えられない」と考えてしまうんです。決して胸を張れるような人物ではないんです。例えば誰かを騙している時と、部屋に帰ってひとりきりでいる時では、心情が全く違います。部屋に一人でいる時は影をまとい、 重い足かせをつけているような感覚で。それを象徴して一人で歩くだけのシーンで、本当身体を小さくしながら、重い脚を引きずるようにトボトボと歩いたり。誰かに対して葛藤を訴えることもなく、嘆くわけでもなく、常に自分の中で抱え込んでいるような人間、その身体表現というんでしょうか。彼の行動の動機は「誰かを救いたい、そのために悪と向き合わなければ」というような、決して美化されるようなものではありません。描かれるのはヒーローではなく、一人の詐欺師の個人的な物語で、田胡悠人は自分の生い立ちとどう向き合ったらいいのかわからない。頭では理解しているのだが、受け入れられない。ですが、その「わからない」ことも、ひとつの答えでもある。視聴者の皆様に投げかける大きなテーマでもあるのかなと。
現在、絶賛撮影中のドラマ『ダブルチート 偽りの警官 Season2』で自身が演じている田胡悠人について、市原さんはそんなふうに語ります。ドラマに登場する「詐欺師」は、例えば誰かを騙す際の変装など、多くがその形の部分をエンタテイメントとして描かれることも多いのですが、市原さんは「田胡を演じる上で、その部分は全く考えなかった」と言います。
市原:台本を頭から最後まで、監督と一緒に読み合わせたのですが、どう表現していくかが本当に難しくて、今でも答えがみつかっていません。カッコよくもなく、美化されるような人間でも全くなく、ただただ生々しく生きている、生かされているような人物であり、他人様には見せたくないような姿を映像に残してしまっているような感覚があるんです。ある場面では、気が付いたら涙が止まらず、鼻水垂らすほど泣いていました。監督からは「いいのが撮れましたね」と言っていただいたのですが、それでいいのか悪いのか、正解が分からない。常に迷いと苦悩の中で演じていますが、とにかく迷い続けたい、という気持ちもありました。
「詐欺師をハメる詐欺師」と聞けば、痛快な正義の味方のように思えますが、田胡はそれとはかなり異なります。子供時代のある事件をきっかけに一線を超えてしまった田胡は、自身の信じる道理を貫くために、あらゆることをやってきた男です。ドラマの魅力は、シーズン1と2を通して「正義の正体」を真正面から問うていることだと、市原さんは考えているようです。
市原:「悪とされるもの」にも、時には正義があるのか。必要悪というものはあるのか。誰かを犠牲にした上で成り立つ正義というのはあるのか。詐欺師である田胡にも彼なりの「正義」があるのか。いろんなことを考えた上で、結局のところ「自分が考える正義」というのは、少なからず自分勝手なところがあるんではないか、自分の正義は、誰かの犠牲の上に成り立っているんではないかということを、考えさせられます。これは全ての世界に共通する部分ですし、僕自身の中にも、自分が「正義」だと信じていることは、かならずしも正義ではないかもしれないという思いがふつふつと湧いてきました。国が違えばルールも規律も秩序も異なるし、同じ理念で結ばれた会社内でも、上司が違うだけでプロセスも正解も変わってしまうし、学校も先生が違えばそうなりますよね。そして結局のところ「正義」という概念自体、人間がそれを利用しようと生み出したものであるわけで、そういう「正義」は正義であるとは言い切れないんではないか――そうやって「正義っていったいなんだろう」と考えていると、わかっているようで、わからなくなります。 仏教の禅問答のようなもので、結局のところその答えは、考えて考えて考えて、考え抜くことそのものなのかなと。本当の正義なんて、未だに誰も知らないんじゃないんではないかと。
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