究極のときに呼ぶのは……
梅雨寒、というのだろうか、雨が朝から雨がしとしとと降って、気温があがらない。こんな日なのに、営業周りが多くて難儀した。会社を出た時点で時計は19時半。幸いにも、金曜の夜、今日は男子3人とも飲み会でごはんを作らなくていい。
1人なら適当に作ればいいと、私は少しの野菜と鮭の切り身だけ買って家路を急ぐ。誰もいない夜なんて今年に入って初めてかも。今夜はゆっくりして映画でも見よう。このところ物思いに沈んでいる時間が長すぎた。
家について、手を洗い、食材を並べながらとりあえずスマホをチェック。よかった、何も連絡は入っていない。
……英玲奈が妊娠してから、常に着信がないかを確認するようになっていた。仕事をしても、家事をしても、頭の片隅にいつだってお腹がふっくらした英玲奈の姿があった。
もっとも英玲奈が何かあったからと言って私を頼る気はしなかった。それは英玲奈が悪いわけじゃない、もちろん。相談しにくい私に問題があるのだろう。ほかの母親に比べたら、仕事で一緒にいる時間が短かったことも関係しているかもしれない。でも同じ状況でいい母娘関係を築いているひともたくさんいるから、やっぱり言い訳だろう。
私が英玲奈の信頼を得られなかった。どうしてもっとうまく愛情を伝えることができなかったんだろう。母親なのに意地を張って。もう一度チャンスがあったらば、うまくできるだろうか? その自信はないけれど、それでももう一度、チャンスがあったら……。
――ピピピ、ピピピ
電話を手にして思考をさまよわせていると、ちょうど着信がきて、私は短く息を吸い込むと急いで通話ボタンを押した。英玲奈だ。声を発するまえに、英玲奈の声が耳に流れ込んできた。
「お母さん……」
声に力がない。私は慌ててボリュームを上げた。
「もしもし英玲奈? どうしたの? どうかした?」
「……熱い。頭がすごく痛いのに薬、飲めなくて」
「え!? 熱? 熱があるの? 頭も痛いの? 今、1人? お腹はどう?」
飛び上がって矢継ぎ早に質問をする私に、英玲奈が力のない声で答える。
「1人。今朝から調子が悪くて……帰ってきたら頭が痛いし熱も測ったら39度も……お腹も張ってる、どうしよう。助けて、熱いよ、痛いよ、ママ……」
その言葉を聞いた瞬間、私はバッグをつかんで電話をつないだまま家を飛び出していた。
「今いくからね、英玲奈、大丈夫よ、大丈夫だからね。いったん電話切るね、すぐ行くから」
私はマンションのエレベーターを待つのももどかしく、階段を駆け下りる。母の本能を全開にする言葉だけが、頭のなかで響いている。
「ママ、助けて」――それはこの世で一番、母を突き動かす声。
今、行く。あなたが私のことなんて好きじゃなくても、まったく別の毎日を送っていても。
いつだって、どこにだって。
雨でタクシーがつかまらない。私はマンションの裏手に回ると電動自転車に乗って、傘もカッパもなしで飛び出した。ひと駅先の英玲奈のマンション。いざとなったらいつだって会える距離。……もしかして英玲奈もそう思って、マンションを選んだのかもしれない。そんなことにも気がつかず、あまつさえ拗ねて、本当に間抜けで器の小さい母親だ。
気が合わない? 今はそんなことどうでもいい。小さい頃から、熱を出すと英玲奈はうわ言みたいにママ、ママと呼んで3人のなかで一番甘えん坊になることを思い出した。
そう、子どもなんてそこにいるだけでいい。それで充分。かわいいとかかわいくないとか、気が合わないとか、どうでもよかったのに。あなたが生きて、自分らしく幸せでさえいてくれたら。
英玲奈、今いくからね。どこにでも、いつだって、ママはあなたが困っているそのときはそばにいく。
私は夜の雨の中、無我夢中で自転車をこいだ。
手探りで始めた小学校受験。でも途中でお金が無くなって……?
イラスト/Semo
編集/山本理沙
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