2か月前に父が急逝し、ようやく父の死を受け止められるようになってきました。
親が死ぬとはどういうことなのか。今、思うことを伝えていきます。

 


しばらくは、悲しんではいられなかった

親が死ぬということ。会えなくなることで実感する「愛の深さ」_img0
「親のありがたみ」を実感

父親が他界してから葬儀が終わるまでは、悲しんでいられる暇がないくらいに、とにかく忙しかったです。
特に父は病院ではなく、自宅の風呂場で亡くなっているので、警察による検視が必要でしたし、その後、警察署での医師による検案、そして、「病死か、事故死か」の詳細を調べる解剖のために東京都監察医務院にも初めて行きました。さらに、葬儀の準備も始めてだったので、分からないことばかりで、なにもかも手探りでした。
自分の仕事を1週間ほどキャンセルしなくてはいけなかったし、父が社長をしていた会社を今後どうするのかも考えていく必要があり、とにかくやることがたくさんあって、感情に振り回されることなく、理性的でいることを心がけました。

でも、葬儀が終わり、たまっていた仕事も片付け、少し心に余裕が出てくると、深い悲しみがよみがえってきました。


周りの人から聞く「父の姿」


父が他界してから、父が使っていた携帯は私が預かっていました。生前の父は、自分の携帯を私には全て見せていたし、色々なことを話してくれていたので、ガールフレンドが1人や2人いても、正直、驚かない状態でした。
実は、父が亡くなったことを彼女たちに伝えなくてはいけないなぁと思い、メールをしてみたのです。そうしたら、驚いたことに、同じような内容のことが書かれた返事が来たのでした。

「お父さんはいつも、『今度、娘さんと食事に行くんだ』って、うれしそうに話していた」と。

泣けてきますよね……。もちろん、父は本当にうれしかったのか、私を話のネタにしたかったのかは分かりませんが(笑)、まだ父が、杖がなくても歩けるときは、よく2人で食事に行っていました。
父は気前のいい性格で、「好きなもの、食べたいものを何でも頼んでいいから」と言ってくれたので、父のおかげで、食の奥深さを学んだところもあります。
正直言うと、若い頃の私は、「父親に食事を付き合ってあげている」くらいの感覚でしたが、今思うと、そんな「好きなものを食べていいよ」なんて言ってくれる人はなかなかいないもの。失ってみて、改めて親のありがたみを実感します。

親と死別したことのある友人が教えてくれたのですが、「亡くなった1ヶ月後に、悲しみに波がきた」と。私にも同じようにその波が来ました。死別した当初とは違う“じわじわとくる悲しみ”なのですよね。