ずれていく境界線
やると決めたのは私。夫さえもとくに賛成していません。幼い本人が何を選べるというのでしょう。間違いなく母である私が誘導しているのです。
だからこそ、合格させてあげるのが義務だと、私は狭い視野のなかで考えていました。だいぶ偏った意見なので、書くのが恥ずかしいのですが……。
もちろん第1志望に絶対受かる、なんて思っていません。でも最後は本人が中学受験をしてよかったなと思える学校に合格させてあげたい。それが誘導した親の役目であり、できるだけのことはしてやらなくちゃ、と思いこんでいました。
でも次第に、「できるだけのこと」の境界線がずれていく。
それはお金かもしれないし、時間かもしれません。仕事をしながらサポートをしていると、良かれと思ってその境界線をずらすことで、親はどこかで無理をすることになります。
低学年から通塾したことに関しても、とにかく近い塾に通って少しでも時間と体力を確保したいという気持ちから、内心違和感を抱きつつ、お金を払うことで手を打ったのです。
そのちょっとした無理のぶん、リターンを求めはじめる。きっと成績があがるはず。子どもが喜んでくれるはず。もう少し楽に勉強できるはず。きっと合格するはず――。
大げさかもしれないけれど、「小学校2年生から塾にいく必要はないのでは?」と感じた気持ちを、子どものためと理由をつけて曲げたことは、中学受験沼への第1歩だったなと思います。
私はそれまで比較的欲望に忠実な、シンプルな人間でした。やりたいことはやるし、直感でやらないほうがいいと思うことは背を向けてきました。
にもかかわらず、その後受験勉強がハードになってくると「個別指導塾にも通うべき?」「夢だった著書執筆の依頼をいただいたけれど、受験生の間は断ってサポートするべき?」などと、それまで1ミリも考えなかったようなことを考えるようになります。
子どもを合格させたいという望みには悪魔的な、強い力がある――。
いつの間にか5年生が終わろうという冬に、私はぼんやりとそんなことを考えました。
さあ、いよいよ6年生。中学受験生本番です。
……つづきます。
編集/山本理沙
イラスト/Semo
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