「あなたはさっきから“夫が、夫が”と言っているが、男性を下に見ているのか。“旦那さん”と言ってくれないか」


先日、私の話を聞いていた80代と思しき男性がこう言った。「あなたはさっきから“夫が、夫が”と言っているが、男性を下に見ているのか。“旦那さん”と言ってくれないか」。おお、女が配偶者を「夫」と言うのを、不敬と感じる人もいるのか。非常にフレッシュな発見だった。

ちょうどいい機会なので、その場にあったホワイトボードに「旦那」「主人」「夫」と書いて、「旦那(施しをする者)」や「主人(他の人を従属させている者)」は夫婦においては男女の上下関係を前提にした呼称であること、70年以上前に憲法が変わってイエ制度は廃止されたこと、男女は主従ではなく対等な関係であること、女性が自身の配偶者を「夫」と言うときは単に続柄を示しており、見下しているのではないことをフレンドリーにお伝えした。

誰かに説明する時に自分の配偶者をどう呼ぶかは、個人の自由だ。20代で「主人が」「ヨメが」という人もいる。私も嫁プレイ期にはシュジンガと言ってみたりした。でも言葉は社会を形作る。自分が(自分たち夫婦が)どう感じるかと、言葉が社会に与える影響とは分けて考える必要がある。

「いつも頼れる巨木でいてね」夫とは本当に対等な関係だっただろうか。あの頃の自分に言ってやりたいこと【小島慶子】_img0
写真:Shutterstock

「旦那・主人・奥さん・家内・嫁」などと呼んだり呼ばれたりするのが全然気にならない人はたくさんいるが、他人にそれを強いちゃいけない。そりゃそうだけど、ポリコレお腹いっぱーい、という心境の人もいるだろう。おじいさんは放っておきなよ、と。でも、その男性はまたどこかで誰かに「“夫”なんて不敬だ。“旦那さん”と言いなさい」と言うかもしれない。言われた女性はたいていスルーするだろうが、中にはすごく息苦しい思いをしながらその通りにするしかない立場の女性もいるはずだ。私はそんな思いをする女性がいない世の中に暮らしたい。だから、その場で楽しく言い返せる私が、件の男性にもう明治憲法の世ではないことをお知らせしたというわけだ。

なんでたかが呼び方にこだわるのか。シュジンやヨメという呼称を単なる呼称と考えて全く気にしないでいられる人がいる一方で、いまだに男尊女卑や家父長主義が残っている人間関係の中で、つらい思いをしている人もたくさんいるからだ。気にしないでいられる人は、「気にしないではいられない人たち」に対する想像力を持つ必要がある。そうでないと「自分は気にしなーい」と言いながら、誰かの首根っこを踏んでいることに永遠に気がつけない。

あの高齢男性は、男尊女卑が血液のように自然な形で体内を巡っているので、私を「不敬」だと感じたんじゃないかと思う。年長者は年少者に、男は女に、正しくものを教えてやらねばという脊髄反射だったのだろう。ご本人としては、世直し、あるいは行儀の悪い女に対する親切な忠告のつもりだったのかもしれない。自身が女性を差別しているとは微塵も思っていないはずだ。そして私も彼に腹を立てていないし、憎んでもいない。ただ、知ってほしいと思った。

流れ出た血を見て肉眼で「ほらここに赤血球が」と指し示せないのと同じように、日常会話の中で「あなたの物言いは性差別的ですよ」と指摘して理解してもらうのはなかなかに難しい。一緒に顕微鏡をのぞいてくれる忍耐力と理解力のある人ばかりではないからだ。でももし教科書で赤血球というものを習ったことのある人なら、「血液には赤血球が含まれていますよね。赤血球に含まれるヘム鉄が酸素と結びつくと赤くなるんですよ。だからあなたの血も赤いんです」と言われたら、ミクロのつぶつぶが見えなくても「へえなるほど」ぐらいは思うだろう。目で見えなくても知っている、って大事なことだ。だから、たとえ80代までジェンダー平等を知らずに生きてきた人でも、もしかしたら誰かの話がきっかけでちょっと想像力が広がるかもしれない。そんなわけで、成功率は高くないが、機会があるなら話をすることは無駄ではないと私は思っている。

日本の社会で生きていると、知らぬまに体内に男尊女卑の習慣が取り込まれて、学校や職場や家庭で繰り返し学習するうちにいつの間にか血中濃度が高くなっている。誰の身にも起きることだ。アンコンシャスバイアスと言ったりもするが、全く無自覚のうちに男はこう、女はこう、夫はこうで妻はこうあるべきと決めつけて人をジャッジしてしまう。

出会ってから27年。夫も私も、己の体液に溶け込んだ性差別やジェンダー幻想を、時間をかけて透析し、時には痛みを伴いながらとり除いてきた。それらは有害な毒素だが、この社会で生きている限り、身の内に生じてしまう老廃物でもある。人はみなそれぞれに愚かだが、気づいて学んで変わることもできる。夫と四半世紀以上を共にして、それを目の当たりにすることができたのは、なかなかに尊いことだと思う。

それにしても、思うようにならないのは当時と変わらず日々加齢する身体と、分かったようでやっぱり全然わからない夫婦という間柄だ。彼はいったい誰なんだろう。あの日、路上に散らばった電話の破片を拾ってくれていなくても、今もこうして繋がりを持っていたのだろうか。量子レベルの世界では、私たちが何かをするたびに「じゃない方の世界」が生じているという。拾わなかった彼も、今ごろこことは違う現在を生きているのかもしれない。ちょっと会ってみたい気もする。

 


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