夫の単身赴任について行くはずが…


——お父さまが64歳で急逝され、諏訪さんは32歳で町工場を継がれましたが、そのときどんな状況だったか教えていただけますか。

諏訪貴子さん(以下、諏訪):実は当時、夫が仕事の関係でアメリカに赴任することが決まっていました。私も、6歳だった息子も一緒に行く予定で引っ越しの準備をしていて。そのさなかに父が亡くなったので、ダイヤ精機の今後について、急きょ家族会議をすることになりました。私の夫に社長を任せる選択肢もあったのですが、最終的には私自身が社長を引き受けることに。簡単な決断ではなかったですが、後悔しない選択をしたいと思ったんです。それで家族で話し合った結果、夫はアメリカに単身赴任、私は日本に残ってダイヤ精機を継ぐことにし、息子は私と一緒に暮らすことになりました。

——旦那様が海外に単身赴任となると、諏訪さん一人で会社経営も、当時まだ小さかったお子さんの子育ても担う状況が想像できます。それでも2代目を継ぐ決断ができたのはなぜですか。

諏訪:私は長らく専業主婦をしていましたから、正直「父の会社を継ぐ」なんて夢にも思わなくて。でも亡くなった父の顔を見て、この人は自分の信念に従って進んできたんだなって思ったんです。やりたいことはすべてやり遂げた——そんな満足感に溢れた顔をしていました。田舎から出てきて会社を作って、お客様から信頼される企業に育て上げた。私も後悔しない生き方をしなきゃいけないなって、父の顔を見て強く感じました。

それに、私の心の中には「兄」が一緒に住んでいるというか。兄は6歳のときに白血病で他界しましたが、何か選択を迫られたときはいつも「お兄ちゃんだったらどんな選択をするだろう」と考えます。父が亡くなったときも、「お兄ちゃんなら絶対に継ぐだろうな」って。

 


母の第一声は「かわいそうに」だった

32歳、専業主婦から「町工場の2代目」へ。50代になった今振り返る“感謝と戦いの日々”【諏訪貴子さん】_img0
「職人さんたちは無骨で真面目で不器用なところもある。でも、私は子どもの頃から一緒に過ごしていた方もいたので、少しずつ笑顔が増えて家族みたいになりました」

——ご著書の中でも、諏訪さんが「兄だったらきっとこっちを選ぶ」と心の中で対話している様子が印象的でした。創業者の娘である諏訪さんが会社を継ぐ決断をしたときは、お母さまもさぞ喜ばれたのではないですか。

諏訪:それが、逆だったんですよ。「私が継ぐよ」と言ったとき、最初に母から言われたのは「かわいそうに」という言葉でした。母は、女性が外で働く、特に子育てをしながら働くということに抵抗があったようです。会社を継いだのは20年前のことですし、今ほど女性の働く環境が整っていない時代でしたから、仕方がない言葉なのかもしれません。社長に就任した当時は、「息子が一人でかわいそう」と母から責められたりして、喧嘩になることもしょっちゅうでした。

それに、父と母が一緒に立ち上げた会社でもあったので、母としては「娘に会社を取られた」ように感じたのかもしれません。私が社長としてどれだけ頑張っても褒めてもらえることは少なくて、「母親」として責められることの方が多かったですね。だから、母にはほとんど弱音を吐きませんでした。

そんなときに、私をかばってくれたのが息子だったんです。息子は母に、「僕は寂しくないよ。だってお母さんはお仕事頑張ってるんだから!」と言ってくれたりして。息子には本当に感謝しています。