「差別」か「合理的な区別」か。その疑問はあちこちに転がっている
「差別」なのか、それとも「合理的な区別」なのか。その境目が曖昧なことはこの社会にたくさん存在します。例えば、学歴が就活で選考の大きな基準になることが差別ではないとして、それでは「容姿」で選別することは差別になるでしょうか。
『消費される階級』の中では、アナウンサーの容姿の男女差についても触れられています。
日本では、キャスターにしてもアナウンサーにしても、女性は皆、痩せていて美しいものです。(中略)
キャスターやアナウンサーというのは、ニュースを読んだり意見を言ったり番組を進行させたりするのがメインの業務であり、容姿とはそもそも関係のない仕事です。ですからテレビ局のアナウンサーを見ると、男性の場合は、容姿が優れた人ばかりというわけではありません。いわゆるイケメンも一部いるけれど、そうではない顔面のアナウンサーもたくさんいますし、中年になるにつれて、どんどん太っていく人もいるのです。
対して女性アナウンサーの場合は、皆が皆、美しい顔面の持ち主なのでした。
『消費される階級』(酒井順子著、集英社)
これは筆者も日々感じていることです。男性アナウンサーは、容姿が優れていなくても、キャラクターや実力で採用されているように感じますが、女性アナウンサーは全員と言っていいほど、美貌と細さが必須とされているように思います。女性アナウンサーの場合、キャラクターや実力を見られる前に、まずそもそも容姿が整っていないと土俵に立てない、という気がします。中には食いしん坊キャラで通っている女性アナウンサーもいますが、それでも世間一般から見たら十分に細いのです。
先ほども触れたように、学歴のように、仕事ができるかどうかとの関連性が明確な場合、それが選考の基準になるのは差別ではないと思います。しかし、アナウンサーの“スキル”と“容姿”に関連があるかと言われれば疑問であり、仮に画面映えするという理由で容姿が優れている人が優遇されるとしても、男女で差があるならばそれは男女差別ではないでしょうか。また、学歴も男性のみ、または女性のみが求められて、どちらかが不問だとしたら、それもやはり男女差別でしょう。男女で差をつける合理的理由がないからです。
では、例えば美男美女の方が営業の成績で良い結果が出やすいというエビデンスがあったとしたら、顔採用をするのは差別になるのかどうなのか。そんなことを考えたりします。
いくら建前では公平な選考が義務付けられていても、人間は見た目など視覚的情報で人を判断しがちです。果たしてその基準が合理的なものなのか、はたまた主観的で差別的なものなのか——。立ち止まって考えてみるのもいいかもしれません。
写真:shutterstock
文/ヒオカ
構成/金澤英恵
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