駐妻ネットワークの洗礼
駐在員の妻、いわゆる「駐妻」の生活は、しばしばその人間関係の濃密さが話題になります。日本から引っ越してくると、まず同じ会社の社員会や日本人会があれこれと助け船を出してくれるといいます。そのままそこで人間関係ができれば、そこから急に抜け出すのは容易ではないでしょう。ただでさえ子育て中は切実に情報が必要です。
例にもれず、まずは日本ネットワークのなかで生活をスタートさせた幸子さん。婦人会で歓迎会が催されます。そこで驚いたのは、あまりにもお互いの家のことや、ほかの会社の日本人のことを奥様方が知っていたことでした。
「あそこのご主人は週2回ビジネス英会話スクールに行っている、とか誰それのお子さんが有名なボーディングスクールの2年生にいるとか、あの奥さんは毎日エステにいるとか、自然に会話に出てくるんです。
歓迎会のお店はホテルの個室中華でしたが、なぜ個室なのか分かる気がしました。とにかくナチュラルに噂話でもちきりなんです。お手洗いのとき、隣の個室から日本人の奥さんたちがぞろぞろ出てきて、どうやら同業他社。都市は広いけれど、駐妻の生息エリアは限られているようでした」
それは確かに、口は災いのもと。すぐに脱退できない集団のなかで、注意を払う必要がありそうです。
とはいえ、幸子さんはさすが元キャビンアテンダント、いわゆる女社会の身の処し方には慣れていて、すぐに溶け込むことができたそう。秘訣は、悪口には参加しない、感謝はいつも伝えることなんだとか。
そんな調子で順調な滑り出しでしたが、一方で夫の洋治さんはそうはいかない様子だというのです。
勝手の違う職場…夫に起きた変化
「どうやら職場で、人間関係がうまくいかないようでした。現地スタッフとは英語でやりとりをする必要がありますが、夫の英語力はそこまで流暢ではありません。それで発注のトラブルがあったことがことの始まり。しかも同僚はシンガポール人や中国人、インド人など多国籍なので、日本人的なあうんの呼吸みたいなものは通用しません。家でもイライラしていることが増えました。私や子どもはなんとか新生活に慣れて順調だったので、その温度差を感じさせないようにとても気を使いました……。
夫は高学歴で、ちょっと人を馬鹿にしているようなところがあるんです。きっと駐在という状況で、無駄に横柄だったのではないかと。半年くらい経ったとき、彼は車から降りるときゴルフバッグもドライバーに持たせ、ドアの前では仁王立ち。ドライバーが明けてくれるとお礼も言わずに中に入る。通いで週3回来てくれるメイドさんにも、料理の味付けがどうとか、アイロンが甘いとか、始終文句を言っています。
『会社がお金を払っているからこの人たちは生活をサポートしてくれているけれど、仕事なだけで身分とか勘違いしているんじゃ?』と私は内心とても引いていました。そのことを言ったこともありますが、会社のトラブルで始終イライラしている彼は『気楽な駐妻のくせに、誰のおかげでこの王侯貴族な暮らしだと思ってるんだ!』と怒鳴られました」
王侯貴族……。おそらく洋治さんは駐在員のことをそのように思っているのでしょう。会社員としてこれまで頑張ってきて、急にドライバーにメイドつき、高級コンドミニアム住まいになり、得意な気持ちがあったのはわかりますが、横柄な態度は得策ではありません。
気楽な駐妻、と言われた幸子さんは憤慨し、自分は自分で生活を楽しもう、この限られた時間を有意義なものにしようと、英語を習ったりテニスを始めたり、ボランティアをしたり精力的に活動するように。
充実した日々でしたが、駐在がスタートして10ヵ月が経った頃、事件が起きます。
洋治さんが会社のとある部屋の鍵を家に忘れたことに気が付いた幸子さん。それはいつもカバンにがっちりとストラップでつけられていますが、前夜にペットボトルの蓋が開いていて、ジュースがこぼれたために取り外していました。すぐに電話をしたけれど、なぜか電波は入っていません。
「夫を会社に送ってから戻ってきたドライバーのJさんに頼もうと思いつきました。コンドミニアムの地下駐車場にはドライバーたちの待機所があるんです。用事がないときは、彼らはそこで寝そべってテレビをみたり食事をしたりできます。
そこに降りていって、この鍵を夫に届けてほしい。ついでに、今日会社からもらえる子どもの学校に必要な証明書をもらってきてほしいと頼みました。もし今日の午後にそれがあれば、授業参観に持っていけるので便利だと考えたんです。
ところがJさんは、いつもはふたつ返事なのに歯切れが悪い。なんだかおかしいとピンと来て問い詰めると、『今日はご主人様は会社にイッテナイ』と言うのです……」
衝撃のドライバーの言葉に、幸子さんは聞き取り調査を開始します。
後編では、真面目な会社員だったはずの夫の驚きの裏の顔と、その後幸子さんに起きた大事件について伺います。
写真/Shutterstock
取材・文/佐野倫子
構成/山本理沙
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