保険証がない
「先生~、雨まで降ってきましたよ。もう19時ですし、今から急に誰もこないですよ。閉めましょうって」
山本さんがお帰りになって、今日の保険診療点を再計算して、会計はばっちり完了。先生が終わりにしようか、と言ってくれれば先生にレジの中のお金を渡して掃除に入れる。
「そうですねえ、掃除を始めましょうか。薫さんはそのまま会計をしていてください、僕が診察室を……」
先生がそう言ったとき、カラン、とドアについた鐘が鳴った。
「あのう……予約していないんですけど、今から診てもらえますか?」
女性は30歳前半だろうか。髪の毛をひとつに縛り、フリースにデニム。雨に濡れた前髪からしずくが落ちていた。駅から徒歩15分のこの病院は、たいていみんな近所のひとだ。どこから遠くから歩いてきたのだろうか。
先生はにこにこしながらうなずいて私に合図すると、準備のため手を洗いに診療室に戻った。
「ええ、ちょうど予約の患者さんが途切れていますので、どうぞ」
顔はもちろん、声にも覚えがない。初診の患者さんに間違いない。私は新しいカルテを用意しながら、待合室のソファに促した。
「あの……すみまません、実は……保険証がなくて」
女の人は、ソファに座らずに、なおもドアを開けたまま話を続けた。まるで、いつでもまた外に出ていけるように。もしかしてここに来る前に何件か断られているのかもしれない。
「ああ、保険証をお忘れですか? それでしたらば、今日は10割お支払いいただいて、来週来ていただいたときに7割ご返金していますので、大丈夫ですよ」
医療費というのは、保険証があれば自己負担は3割程度。ただ、初診で保険証のデータがない場合は、全額を仮払いしていただくことにしていた。
「あの、それっていくらくらいになりますか? 手持ちの現金が……あまりなくて」
「ママ、ここもだめ?」
女性の後ろから、幼稚園生くらいの女の子が顔を出した。カッパを着ているけれど、同じように前髪が濡れている。
「痛いよー」
女の子が左の頬っぺたを手で押さえた。
「あ! 患者様はお子さんですか?」
「はい……。1週間くらい前から痛がっていて。今日はもう我慢できないくらいだっていうんです」
「1週間前!? それは大変」
歯が痛いのは大人でも耐えがたい。私はそこまで診察していないことに驚き、改めてさっと親子の様子を検分した。服はよく見ると、冬にしては薄い。足元のスニーカーは汚れて、ずぶ濡れだった。お母さんはエコバッグを持っていて、女の子のスカートは冬だというのにつんつるてん。化粧っけのないお母さんの表情は、雨の夜のせいか、疲れがにじんでいる。
「どうぞ、奥におはいりください。とりあえず診察してみましょう」
やりとりは仕切りの向こうの診察室にも筒抜けだ。諒太先生が、ゴム手袋をしながら奥からにこにこと顔を出した。
保険証がない、現金もあまりない、というのは聞こえていたはず。それでも診るというのだから、私が口を出すことじゃない。ホッとして、「中にどうぞ、お母さまもご一緒に」と改めて促した。
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