こんにちは、編集・川端です。
少し前に大草編集長の講演で母校・立教を久しぶりに訪れてから、また大学で何か学びたいなぁという気持ちが日に日に強くなっています。
そんなわけでアカデミックな本を最近手に取りがち……今日は大好きな穂村弘さんの“短歌解説本”を紹介します。

“短歌”かぁ。あんま興味ないな……と思っても大丈夫です(何に向かって安心させているんだ?笑)この本の画期的なところは、改悪例が載っているんですね。
普通、講義録というものは生徒の解答例があって先生の添削→改善例が載っているもの。それが逆なんですねえ。
例えば、1つ目の事例は中学生の女の子の作品
空き巣でも入ったのかと思うほど私の部屋はそういう状態(平岡あみ)
↓
空き巣でも入ったのかと思うほど私の部屋は散らかっている(改悪例)
短歌も俳句も何が良くて何がダメなのか全然わかんないと思っていましたが、改悪例を読むと私でもわかります。元の短歌のほうが空気感がありますね。
そんな感じで、穂村先生が改悪例を提示しながら、元の作品の良いところを解説して行きます。
パラパラと読んでいくと、あとがきにもあるのですが、穂村先生の改悪例に共通しているのは「いかにも共感されやすい普遍的な感覚」に言い換えてしまうこと。すると途端にその人らしい気づきとか、読み手の想像に委ねられる視覚性、みたいなものがなくなって、心がちっともざわつかないんですね。
「素敵な笑顔」とか「子供が描いたお母さんの顔」とか、誰もがたやすく共感できちゃう“素敵なこと”って、その時点で感情がフィックスしちゃうんだなあと。
「大事なことをわざと書かない」の章に出てくる「書かないほうが生々しい」「体温を手渡したいから書かない」などの解説は鳥肌が立ちました。
私たちの今の仕事は(今の世の中は、と大きく言ってもいいかもしれないですが)、誰にでも広く“わかりやすく”“共感しやすく”表現することを求められています。でも本当の共感は、この人とは違うな〜、私はどうだろう?って振り返って心動かされることにあるのかななどと考えたりしました。


美術展とか写真展とか、面白そうだなと思ってもなかなか行かれないのですが、行くとやはり”よくわかんないけどスゴイ”ものに出合えて良いですね。
ではでは、また〜。
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