こんにちは、ミモレの川端です。
とある案件で大学を訪れてから、学びたい欲が再燃して、社会学系の本をいくつか読んでいます。

今ハマっているのは内田樹さんの『困難な成熟』。

mi-molletは「半熟」という意味で「半熟から成熟へと向かう今を楽しんで」というメッセージが込められていますが(たぶん、たしか、、、、そんな感じです!)、
内田樹さんの『困難な成熟』には、前書きから
「成熟するとはなんであるかを成熟に先立って知ることはできない」
「成熟すべく効率よく無駄なく努力するということはできない」
とあって、ガーン、まあ、そうですよね、と出鼻をくじかれたのであります。
第1章1節は「責任をとることなど誰にもできない」。
起こってしまったこと、しでかしてしまったことは元には戻せない。たいていのことは「ごめん」で済まない。人を殺すレベルの話ではなくても、一度心に傷をつけてしまったら、関係性はその前と全く同じにはならない。覆水盆に返らずです。
それでも、「俺が責任を取るから」っていうのは、責任を取るような事態を予防する文脈で使われているだけだ、と内田さんは指摘します。
ミモレ読者の方は、仕事上、責任ある立場だったり、奥さんとして母として、責任を負う場面が多いのではないでしょうか。
この本を読んで、私が思ったのは(そうは書いてないのですが)、「責任をとる」ということは、過ちをおかした部下や子どもの代わりに土下座をしに行く、とかそういうことではなくて、「裁き」の後の「赦し」の道筋をつける、ということなのかなと。
それが「大人としての成熟」なのだなと思いました。
土曜の午後から、ひどく抽象的な話になってしまいました(汗)。
たまにはそんな難しいことをグルグル考えたりしていると、よく眠れます。

ではではまた〜。
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