男もまた、緊急事態。ますます悪化する状況に……!?


「脱水症状!? 水、持たないで登ったんですか!?」

「1本持ってたんですけど……こぼしてしまって」

 

20代後半だろうか。いかにもインドア風の白い肌と、メガネに真っ白なTシャツ、短パン。コンバースの真新しいスニーカーがどうにも荒野には頼りない。私はリュックを下ろして、最後のペットボトルを取り出した。1リットルは飲み干し、2本目は半分ほど残っている。

これは、最後の水分なのだ。正直、躊躇いがあった。

「すみません、私も、これしかないんです。足を怪我していて……最後のバスに間に合うかどうか」

「最後のバス? ってなんですか?」

「ええ!? 11時30分のラストバスですよ! まさか知らないでここにいるの……?」

男は、きょとんした顔でこちらを見たあと、みるみる顔が赤くなり、慌てはじめる。

「うわっ、ガイドさんが英語で必死に説明してたのはそれか……! バスの時間を忘れるなって言ったような気がしたけど、詳しくは聞き取れなくて……」

「ちょっと、ちょっと、それダメな日本人の典型ですよ!?」

私はもはや状況を忘れて突っ込んだ。ひとのこと、言えた義理じゃないが……。

間違いない。私や、この人のような人がいるから、この岩山は観光客が入山禁止になるのだ。

「お水、貴重ですよね、すみません……」

男は急に弱々しい声になると、またぐったりと天を仰いで上半身を岩に預けた。切羽詰まっていそうだ。時計は11時を指している。あと30分で、バスが出てしまう。

膝は、もはや脈打つリズムと同調して、ズキンズキンと神経を圧迫していた。

「あの、お名前は」

私の問いかけに、男は首だけ持ち上げて、こちらを見た。眩暈がひどいのだろう、顔が歪む。

「ゴウダタダシです」

ジャイアン……がよぎったが、そんな場合ではない。私は足をひきずって、ななめの岩肌をゴウダタダシ氏のほうへほふく前進した。貞子のような近づき方に、男はぎょっと目をむく。

「水、飲んでください。それから5分休んで、下に行って、助けを呼んでください。私、あと30分で降りられそうもないから」

「え!? でも、あの、僕、そんなにすぐ動けそうもないですよ……」

「あなたね! 死ぬわよ、あれを見て」

ゴウダタダシは、弱々しい視線で私が指さすほうを見る。日差しが、あと20メートルほどのところに迫っていた。

「うわっ、いつの間に!? 日陰も一気に暑くなってきてる、日差しがきたら終わりですよこれ」

「だから、飲んで! 飲んで、知らせてきて。私も、できる限り降りるから」

「んなこと言われても、頭はガンガンするし、30分は無茶だと思う……貴重なお水をいただいて、そんなことになったら僕、申し訳ないっすよ」

半べそになるゴウダタダシ。一人のときは怖くて震えていたのに、もはや恐怖を忘れ、私は彼を叱り飛ばした。

「飲めば歩けるようになるから! 500mlの半分飲んで、休んで。残り半分は歩きながら少しずつ飲んで。バスが出る前に降りて誰かに知らせて、このお水の恩義を感じるなら、お願い」

ゴウダタダシは、黙って水を受け取ると、意を決したように口をつけた。二口目は、堰を切ったようにごくごくと飲む。乾いたからだに、染み込む音がするようだった。

200mlほど残したところで、ゴウダ氏はペットボトルを私に握らせた。

「これはあなたが飲んで。1分したら、降ります」
 

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日常に潜む、恐ろしい話をのぞいてみましょう……。
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