青春小説やドラマ・映画を見ていると、女性の方が難病や余命わずかな状況などで死んでしまうパターンが多いな……と感じたことはありませんか? あえて具体的なタイトルは出しませんが、「難病もの」「余命もの」の作品を誰しも一つは思い出せるのではないでしょうか。でも、これは現代にはじまったことではないのかもしれません。
夏目漱石の『三四郎』や森鴎外の『青年』、有島武郎の『或る女』など、近代日本の文学では「告白できない男」と「死に急ぐ女」ばかりが出てくることに気づいた斎藤美奈子さん。それは現代日本にも影響を及ぼしているのではないのかという考察を繰り広げる著書『出世と恋愛 近代文学で読む男と女』より、序章の一部を抜粋してお届けします。

青春小説の王道は「告白できない男たち」

最初にいっておくと、近代日本の青春小説はみんな同じだ。「みんな同じ」は誇張だが、そう錯覚しても仕方ないほど、似たような主人公の似たような悩みが描かれる。

①主人公は地方から上京してきた青年である。
②彼は都会的な女性に魅了される。
③しかし彼は何もできずに、結局ふられる。

以上が青春小説の黄金パターン。「告白できない男たち」の物語と呼んでおこう。

 

青春とは何か、というのは簡単には定義できない命題だけれど、前提として必要なのは「精神的な親離れ」だろう。経済的には自立していなくとも、親を「うっとうしい存在」と感じはじめたら、それはもう青春への入り口だ。家族より友達や仲間といっしょにいることを好み、場合によっては親が敵に思えてくる。したがって「上京」は、主人公を親からむりやり引き剥がす手段としては、優れたモチーフといえる。

青春期はしかし、自分の将来が見えていない不安な時期だ。それでも彼は徐々に自分の世界を見つけ、人によっては「これで身を立てたい」と考えはじめる。
そうこうしているうちに主人公には好きな人ができる。恋愛という要素が加われば、もはや完璧に青春である。青春小説を青春小説たらしめているのは恋愛だとさえいえる。

しかし彼は必ず挫折し、失恋する。将来への展望は開けてこないし、恋愛も上手くいかない。当たり前である。10代や20代で、そんなに簡単に、夢が実現したり恋が成就したりしてたまるか、だ。