恋愛小説の王道は「死に急ぐ女たち」 

とはいえ、恋愛が成就するケースがないわけではない。片思いから一歩前進、彼女の心を射止める第一関門を突破したのであるから、恋愛の勝者である。
ところが、近代日本の恋愛小説も、じつはみんな同じなのだ。

いや、「みんな同じ」は誇張である。誇張だが、そういわずにはいられないほど、こっちはこっちで黄金の物語パターンが存在するのである。

①主人公には相思相愛の人がいる。
②しかし二人の仲は何らかの理由でこじれる。
③そして、彼女は若くして死ぬ。

たまに恋愛らしい恋愛に発展すると、どういうわけか彼女は死ぬのだ。いいかえれば、恋愛に踏み込んだ女は、作者の手で「殺される」のである。
ここでは「死に急ぐ女たち」の物語と呼んでおこう。

 

二人の仲がこじれる理由はいろいろである。この時代、そもそも自由恋愛はご法度だった。結婚相手は親が決めるもので、好きな人と結ばれるケースは多くなかった(恋愛結婚の比率が見合い結婚を上回るのは、戦後の高度経済成長期である)。

なので、どっちみち愛し合う二人の前には、さまざまな壁が立ちはだかる。
親の介入はその最たるものだろう。心ない周囲の目も強敵である。ライバルの登場、どちらかの心変わりや裏切り、誤解による気持ちのすれちがい、あるいは病魔。二人の仲を引き裂こうとする罠は、方々に仕掛けられている。

それをひとつひとつ乗り越えていくのが恋愛小説の醍醐味(だいごみ)ともいえるのだが、なぜだか日本文学の恋愛はゴールに到達することなく、女性の死で終わるのである。

なぜ彼女は死ななければならなかったのか。いまのところ理由は謎だ。もしかして日本の作家は、恋愛を、あるいは大人の女を書く力がないのかも、と私は少し疑っている。書く能力がなければ、ひと思いに消えてもらうのがいちばんだ。

それはそれとして、この種の小説にはベストセラーになり、映画や演劇に転用されて普及した作品が多い。大衆が悲恋を好むのは、近世の近松浄瑠璃(『曽根崎心中』とか『心中天網島』とか)の時代から、どうやら不変の法則であるらしい。