男子校文化が元凶だった!?

しょせんは小説の話である。が、近代文学は、その国の精神文化に、あるいは個人の生き方に、思いのほか深い影を落としている可能性がある。

日本の男性は、概して恋愛が下手である。恋愛に限らず、学校でも職場でも家庭でも、女性との(とあえて限定するが)人間関係の築き方が上手とはいいがたい。
「女性を前にするとドギマギして、どう接していいかわからない」という人は少なくないし、セクハラや性暴力が問題視されて以降、警戒心を抱いている人もいるだろう。明治大正の青年たちはそんな面倒なことは考えなかった。考えなかったが、恋愛には挫折した。

 

なぜこんなことになったのか。
考えられる理由のひとつは生まれ育った環境である。近代の日本は男女別学の歴史が長かった。とりわけ明治大正昭和戦前期のエリートは、多感な青年時代を男子校(旧制中学旧制高校大学)に代表されるホモソーシャルな空間ですごした。

「ホモソーシャル」とは、アメリカのジェンダー論研究者イヴセジウィックが提出した概念で、女性と同性愛者を除いた男性だけ、あるいは男性が圧倒的多数を占める空間での「男同士の強い結び付き」を指す(『男同士の絆』1985年)。もう少しラフな言葉を使えば、ボーイズクラブ。こういう単色の空間に少年時代からひたっていたら、多様な人間関係を経験できず、コミュニケーション能力を磨くのは難しい。

戦後、日本の学校は原則的に男女共学になったけれども、ホモソーシャルな空間は存続した。部活もそう、組合などの団体もそう、官僚組織、企業、そして議会。すべて(かつて、あるいは現在でも)ホモソーシャルな空間である。

戦前戦後の文壇も例外ではなかった。近代の作家の多くは男子校文化の中で育った知的エリートだし、小説の主人公も圧倒的に男性が多い。

作家は経験などに頼らずとも、想像力でどんな世界でも描ける人たちだと私は思っているし、敬愛もしているけれど、そうはいっても生まれ育った環境から100パーセント自由になるのは簡単ではない。結果、主人公は妄想を膨らませたあげく、最後はふられて打ちのめされる。たまに恋が実っても、彼女は(作者の手で)殺されて恋は終わる。