現状、もっとも分かりやすい例(厳密に言えば、もっとも未来が予測しにくいので、逆に例としてはもっとも分かりやすい事柄)は、英語教育だろう。

40年近く前の私の予備校生時代、一人の頑迷な理系の教師がいた。彼は、当時、最先端の情報工学が専門であった。この教師の口癖は、「もうあと数年もすれば、自動翻訳が飛躍的に進む。だから、君たちがいま必死に学んでいる英語はすべて無駄になる」というものだった。

この文章を読んでいるすべての読者がご承知のように、彼の予言は見事に外れた。しかし、この教師のことを、いったい誰が笑えるだろうか?

いまは逆に、小学校からの英語教育が実施に移され、2020年度には、これまで「外国語活動」とされてきたものが教科として扱われるようになる。しかし、この改革を批判、疑問視する声は多い。

国を捨てる学力【前編】_img0
 

私の親しい英語教師の中には、英語教育は現行の中学校どころか高校からでもかまわないと公言する方たちもいる。それよりは母語の言語運用能力をしっかりと高めてもらった方がいいと考える教員は多い。自らの語学教育の力量に自信のある方たちほど、英語の早期教育には(少なくとも義務教育化には)反対する傾向がある。

ネイティブスピーカーと同じ発音を目指すなら、百歩譲って早期教育は大切なのかもしれない。しかし、そもそも日本人の大多数が、ネイティブと同じ発音をする必要があるのかどうか。

さらに、教えるべきは英語なのかという議論も当然あるだろう。21世紀の中盤以降を生きる日本人に必要なのは中国語かもしれないし、あるいはドイツ語やロシア語かもしれない。

また、近年の自動翻訳技術の進歩には目を見張るものがある。外国人の多い観光地では、土産物屋や旅館などの接客にはGoogle翻訳は欠かせないツールとなっている。おそらく、この技術は加速度的に進歩していくだろう。細かいニュアンスを伝えることができるようになるのは、まだまだ先のことだろうが、接客に使われるパターン化された会話ならば、タイムラグなしで機械翻訳ができる日もそう遠くはない。先の予備校教師の主張は、50年ほどの時を経て実現するかもしれないのだ。

もしもそうなったときに本当に大事なのは、その自動翻訳の機械を使いこなしつつ、微妙なニュアンスをノンバーバル(表情や身振りなどの非言語領域)で伝えていくコミュニケーション能力かもしれない。

いやいや、もちろん、このまま英語が世界を席巻し、このような批判があったことすら笑い話のようになるかもしれない。

しかし、そもそもが初等教育はトレードオフである。子どもの学びの時間は限られている。何かを入れるなら、何かを捨てなければならない。英語教育もいい、プログラミングの教育も必要かもしれない。私がお手伝いをしているコミュニケーション教育の重要性も、否定する人は少ない。だとしたら、他の何かを犠牲にしなくてはならない。たとえば書道は科目として必要だろうか。漢字は書き順まで覚える必要があるのか。実際、教育学の専門家のあいだにも、様々な議論がある。

未来が分からないのに、私たちは、その優先順位をどのように決めればいいのだろうか。(後編は9月11日に公開予定)

 
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