「これから」の社会がどうなっていくのか、100年時代を生き抜く私たちは、どう向き合っていくのか。思考の羅針盤ともなる「教養」を、講談社のウェブメディア 現代ビジネスの記事から毎回ピックアップする連載。
今回は、小島慶子さんとの共著「不自由な男たち その生きづらさは、どこから来るのか」でお馴染みの、田中俊之さんの記事をお届けします。

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「敵」を求め続ける日本社会


エアポート投稿おじさんにインスタおじさん。今日もまた、「間違った」SNSの使い方をするおじさんが嘲笑われている。Facebookで空港にいると報告すればうざったいと叩かれ、Instagramに自撮りをあげれば恥を知れとまた叩かれる。

これからもおじさんと若者がSNSで思いかけず出会ってしまう度に、同じバッシングが繰り返されるだろう。

かつてiモードが最先端だった頃、自分たちもケータイを使いこなせないおじさん世代を見下していたのだから因果応報ではないか。それは確かにその通りなのだが、いま流行りのおじさん叩きは、いつの時代にもあったで済ますことのできない問題を孕んでいる。

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バブル崩壊以降の日本では、社会を覆う閉塞感の正体が常に探し求められてきた。

1990年代後半からしばらくの間、悪者にされていたのは若者である。フリーターやニートの増加は、若者の勤労意欲の低下に原因が求められ、そうした堕落した若者像に「ゆとり教育」という言葉がさらなる根拠を与えた。

すっかり若者はダメになってしまった。若者が意欲を取り戻し、日本がまだ貧しかったあの頃のように、額に汗をかいて懸命に働けば日本は良くなるーー。

しかし、若者は働かないのではなく、雇う側の企業の都合によって正社員として働けなくなっていること、また、ゆとり教育によって学力が低下した明白な証拠がないことが明らかになるにつれ、こうした物語は説得力を失いつつある。15歳〜24歳の若者の3人に1人が非正規で働くという現状を改善するためには、分かりやすい物語ではなく、事実に基づいた対策がなされなければならない。

 

公務員や生活保護受給者がそうした「こいつらさえいなくなれば社会はよくなる」存在として設定されたこともあった。

90年代以降の日本社会は、まるで常に「想像上の敵」を必要としているようだ。

今日の日本で、若者や公務員、生活保護受給者に代わって、不満のはけ口として生贄になっているのが「おじさん」なのではないだろうか。男は下駄を履かせてもらっている。とりわけ中高年男性が問題だ。奴らが日本経済の足を引っ張っている。おじさんを叩け、下駄を脱がせろ。そうすれば日本は良くなるはずだ。

このプロットによって、官僚による女性記者に対するセクハラ、日大アメフット部の悪質タックル指示、あるいは、ボクシング協会の会長による審判への不正介入などの問題はすべて同根だという批判が可能になる。昭和的な価値観を持ったまま権力の座につくおじさんたちを引きずり降ろそうという掛け声も大きくなる。

誤解を招かないように付け加えれば、もちろん権力を乱用する人々への批判は必要だ。しかしそれが「おじさん叩き」という形を取ることには、様々な問題がつきまとう。