どちらかといえば真面目な生徒が(従来型の)一般入試で受験し、比較的要領のいい生徒がAOや推薦入試を利用する傾向があるので、高校三年生の二学期の教室では、当然モラルハザードが起きる。すでに進路の決まっている生徒と、これからが正念場という生徒が一つの教室に混在するのだ。

大学側でも混乱が続いている。
まず試験の回数が飛躍的に増えて、ほとんど喜劇のようになっている。地方開催など細かく見ていくと、20以上の試験を行っている私学はざらである。ほかの私学が行っていると、いたちごっこのように同じサービスを行わざるを得なくなり過当競争になっている。

大きな資本力のある大学は、大規模宣伝を打つ。首都圏や関西圏の電車に乗れば、中吊り広告の半数近くを大学の宣伝が占めている。長引く不況の中で、大学は広告代理店にとって大得意先であった。一般企業に比べてコスト意識が低く、同族など経営形態の古い大学も多い。当然、代理店は群がるように、決裁権を持った人物を様々な形で供応するだろう。


私は、日大アメリカンフットボール部の、あの一連の不祥事の、特に後処理のお粗末さの背景には、そのような肥大化しつつ近代化しない日本の大学経営の体質が遠因としてあるのではないかと思っている。

話を戻そう。
大学は、とにかくなりふり構わず学生募集に走った。夏休みには、教授、准教授が手土産を持って地元の高校の進路指導の先生方に挨拶に回る。もはや大学が学生を選ぶ時代ではなく、生徒が大学を選ぶ時代になった。

 

これまで書いてきたように、四国学院大学に象徴される先端的な大学入試は、とても手間のかかる入試である。だが私は多くの大学で、「教員が高校に出向いて頭を下げる時間があるのなら、大学入試自体に手間暇をかけませんか?」と提案してきた。

よく知られるように、アメリカでは「アドミッション・オフィス」の名の通り、AO入試は大学の入試管理局が担当する。教員はまったく関与しないか、したとしても最終の口頭試問などに関わるのみだ。

アメリカの場合は、この管理局に大学入試、大学経営のプロが所属し大学のアドミッションポリシー(自校の理念に基づいた入学者の受け入れ方針)に沿った選抜試験を責任を持って遂行する。日本の大学でも年々、事務方の重要性については理解度が増してきているとはいえ、まだまだ入試は教員の専権事項であり、AO入試も教員団によって遂行される。それだけではなく教員は、センター試験の試験監督など、入試に関する様々な業務にも駆り出される。

もう一度まとめると、少子化、入学志願者の減少から、日本の大学は「入りやすさ」の過当競争の道を選んだ。一校一校は部分最適を選んだ結果だから仕方のない点もある。本来は、初期の段階でAO入試自体の「質保証」を文部科学省が行うべきであった。

(つづく)

 
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