この話は、日本の学校における英語教育の是非に関する議論とそう大差はないと筆者は考えます。

グローバル化が進んでいるとはいえ、日本人のほとんどは日常的に英語を用いて仕事をする必要がありません。だからといって、社会において、ある程度、主導的な役割を果たそうという人材が、英語の文献を読めない状況でよいはずがありません。したがって高校を大学教育の前段階とするならば、文系であれ理系であれ、それなりのレベルの英語教育が必要という話になるでしょう。

IT化が進む今の時代においては、最低限の理工学的知見は英語と同じ基礎インフラですから、大学教育を受けることを前提にすらならば、三角関数は必要という結論が自然だと思います。

「三角関数は死に知識」論争に欠けている視点_img0
 

一方、高校を実学の場としてとらえるなら、そうはではなくなります。むしろ日常的な英会話を中心に、最低限のコミュニケーション能力を身につけるカリキュラムにした方が合理的です。

一連の話がスレ違いになってしまうのは、高校教育は何のためにあるのか、という共通認識(あるいは大学で何を教えるべきなのかという共通認識)が欠如したまま議論が行われているからです。

橋下氏がもっとも主張したかったのは「三角関数が不要」という話ではないと思われます。カリキュラムが画一的になりすぎてしまい、個人の能力や好みに合わせた教育が実践できていないという部分が本意ではないでしょうか。さらにいえば、橋下氏の主張がどのような生徒を対象としたものなのかあまり明確ではなく、この状態で三角関数について議論しても意味がありません。

今は大学全入時代ですから、昭和の時代における高校と、今の時代における高校の位置付けが変わるのは当然のことです。三角関数についての議論は、これからの時代において、高校教育や大学教育をどう位置付けるのかというテーマとして理解した方がよいでしょう。

 
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