カミングアウトとアウティング


数年前、とある名門大学の大学院生が、ひとりの同性の同級生に対して好意を告げたところ、複数人が参加するLINEグループ上でアウティングされてしまい、その後自殺してしまうという事件が起こった。

僕自身、新人賞を受賞してデビューしたころに、ついつい興味本位で自分の名前をエゴサーチしてしまったことが何度かある。短歌は小説と違って比較的ニッチな文学ジャンルなので、よもや何も出てこないだろう、と思ったのだが、やはりいくつかの揶揄するような書き込みを見てしまった。

僕の場合は、家族や友人はもちろんのこと、社会に対しても自身の性的指向をカミングアウトしているので、性的指向それ自体を書かれることについては何ら問題ない。物書きの端くれとして、こうして世の中になにかを発信することを生業としている以上は、さまざまなことを書かれたり曝されたりする覚悟も、多少はできている(と自分では思っている)。

ただ、そんな僕でも、そうした性的指向をネタにして、揶揄するような書き込みを目にした日の夜は、やはりどことなく食事も酒も不味く感じられた。

前出の大学院生のアウティングについて、僕はアウティングしてしまった側の気持ちについて、思いを巡らせてみたことがある。彼は、同性の級友から思いを告げられたことに、少なからず驚き、戸惑ったのだろう。その驚きや戸惑いは、アウティングをした彼が、自分の周囲に性的少数者がいるということを想像していなかったことによって生じたのではないだろうか。
 
彼のまわりに、たとえ一人でもすでにカミングアウトをしている性的少数者のひとがいたならば、彼は性的少数者が自身の身近にいるということを想像できていたかもしれない。そして、ひとりの無垢な命が失われることは、なかったのかもしれない。

 

勝間さんカミングアウトの意義


つい先日、勝間和代さんのカミングアウトの報に接した。僕は今回、勝間和代さんが同性と恋愛関係にあって、同棲しているという事実をインターネット上でカミングアウトしたことについて、素直に歓迎したいと思った。ちなみに勝間さんは、奇しくも中学から大学に至るまでの僕の先輩にあたるひとでもある。

僕が今回の勝間さんのカミングアウトにおいて、特に意義深いと思ったのは、異性との結婚や出産、そして子育てを経験したひとがカミングアウトした、という点だ。

勝間さんは、長年にわたってヘテロセクシュアルとして生活をしてきたはずだ。結婚と離婚、そして子育てを経験しながらも、華々しいキャリアを築き上げて、世に知られるひととなった。そんな勝間さんの、女性との関係と同棲についてのカミングアウトは、「僕たちの周りにいる、ごく普通に見える父親や母親が、実はLGBTの当事者だった」ということも当然あり得るのだ、と気付きを与えてくれたのではないだろうか。

性は、グラデーションであると言われる。男(青)であること、女(赤)であること、というのは、無意識のうちに社会に規定されているだけかもしれない。本当は、青と赤の混ざった紫であるかもしれないし、ピンクやグレーであるかもしれない。まったくの無色(無性)というひとだっている。

勝間さんは今回のカミングアウトにおいて、自らがレズビアンであるだとか、バイセクシュアル、あるいはパンセクシュアルであるといったことを一切規定しなかった。そういう「カテゴリー」自体を、やんわりと否定したといえるかもしれない。

あなたのとなりにいるひとが、実は複雑な性を胸に抱いているかもしれない、という可能性を示したという点で、勝間さんのカミングアウトはすこぶる意義深いものだと僕は思ったのである。

むらさきの性もてあます僕だから 次は蝸牛(くわぎう)としてうまれたい

LGBTを受け入れ始めた日本が、これから目指すべき道_img0蝸牛(かぎゅう=かたつむり)は雌雄同体で、交尾の際は互いの精子を注入し合う Photo by iStock