エッセイスト酒井順子さんの書き下ろし連載。平成の30年の間に起こった劇的な変化である「ネット社会到来」と「人権意識の変化」。そして、人権意識の改革に30年を要した原因のひとつとして、進取の気性の希薄さを指摘した前回。セクハラや組織内の暴力に異を唱えられずにいた側だったと語る酒井さんが「日大悪質タックル事件」に感じたことと、私たちが新しい時代に心がけるべきこととは……。

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昭和人であるが故の鈍感さの罪


 そんな私(※編集部注:前編より>「NO」と言うことによって発生するであろう面倒臭さを回避し続けた」私)ですから、平成の末期に、日大のアメリカンフットボール部での悪質タックル事件のニュースを目にした時は、心の中に重苦しい思いが広がったものでした。もし自分が同じような状況にいたなら、やはり同じようにタックルを実行してしまったに違いない、と思ったから。暴力やセクハラに対して「嫌だ」と思いながらも「嫌だ」と言うことができなかった記憶は、トラウマのように残り続けています。

 日大悪質タックル事件等を契機に、閉ざされた集団にまだ残されていた暴力やセクハラやパワハラといった昭和の悪風は、減少しつつあります。平成の30年をかけてやっと変化の準備が整って、令和になったら本格的に世が変わっていくのでしょう。

 そんな時に我々が注意しなくてはならないのは、昭和人であるが故の鈍感さを、つい発揮してしまうことです。様々なハラスメント行為に対して「NO」と言うことに躊躇しない若者に対して、
「それくらいは我慢できるのでは? いちいち騒いでいたら、世の中がギスギスしてしまう。上手にスルーするのが大人というものでしょうよ」
 などと、昔の人生相談の回答者のようなことを言いがちなのです。

 しかしその感覚は、これからの世の中とはどんどんずれていくことでしょう。昭和の世はギスギスしていなかった、と思っている人は、その空気が誰かの忍従によって成り立っていたものだとは気づいていません。そして忍従していた側が、「NO」を言うことにより発生する面倒くささをずっと回避してきたからこそ、昭和の悪風は今に残っているのです。

 今、嫌なことに対して「嫌です」と言う人々は、面倒を回避してきた昭和人の分も背負って、「嫌です」と言っています。その人々の発言や告発によって、令和の時代には「他人が不快に思うこと」を想像する能力が、企業や家庭、そして運動部などの閉ざされた集団においても、ますます重視されるようになるでしょう。


「男も女も泣くのは自由」の時代に


 さらに気をつけなくてはならないと思うのは、我々世代が持ちがちな「女性はいつも被害者」という固定観念です。昭和時代に培ったのは、「私達は理不尽な思いに耐えてきた。悪いのも、鈍感なのも男」という被害者意識。しかし男女関係のフラット化が進む世においては、被害者は女性だけではなくなります。
 企業で管理職に就く女友達は、
「最近の若い男って、ちょっと注意しただけですぐ泣くのよ。でも、『男のくせにすぐ泣いて……』とか後輩女性に愚痴っていたら、『それ、セクハラだしパワハラですよ』って言われちゃった」
 と言っていました。

 昭和のド演歌では、女はいつも泣いていますが、男は泣いてはならない存在でした。子育てでも、
「男の子なんだから泣かないの!」
 などと言われたものです。
 しかし今は、男が泣くのも自由。昭和の時代は、女が仕事の場で泣くと、
「これだから女はずるい」
 と言われたものですが、令和の時代は、男であろうと女であろうと、仕事の場であろうとプライベートの場であろうと、泣きたい人は泣く。
「仕事で泣くような奴は出世できない」
 という感覚もまた過去のものなのかもしれず、これからはベソをかく社長、号泣する総理などの姿が見られるのかもしれません。

 そういえば平成の終わり、天皇陛下は在位中最後の誕生日会見において、涙声で思いを語っていらっしゃいました。「涙ぐむ天皇」を初めて目にした私は、「天皇は人間である」という事実を、初めて実感として受け止めた気がします。

 ご高齢だった昭和天皇のお姿も私はしっかり記憶していますが、昭和天皇はあまり感情を表に出さない方でした。誰かと話す時は、
「あ、そう」
 が定番のお答え。笑顔も泣き顔も、見たことはなかった。

 しかし平成の天皇はみずから、「天皇の感情」を提示されました。ご高齢ということで涙もろくなった部分もあったでしょうが、ご高齢であることも含め、人間の弱さというものを、陛下は身をもって示されたのではないか。

 昭和は、「弱いもの」、「下のもの」は、「強いもの」、「上のもの」に従わなくてはならない時代でした。しかし平成という準備期間を経て令和になったなら、平成の天皇のように、弱い部分をもそのまま出しつつも、平らかに生きることができる世になるのかもしれません。

 最初の話題に戻るならば、令和時代に私のIT弱者ぶりは、ますます顕著になるでしょう。生まれた時からコンピューターをいじるネットネイティブ世代が増える中で、とっぷり大人になってからネットに初めて触れた我々世代は、異質な存在になるに違いない。

 しかし令和においては、IT弱者もまた、弱さをさらけ出しつつ、生きていくことができるようになるのかもしれません。人間であれば必ず、どこかに弱い部分を持っている。そんなことを伝えて、平成の天皇は天皇の座から降りられました。

 
50代で令和を迎える我々は、次の御代をも見ることになるのでしょうか。
「えっ、おばあちゃんって昭和を知ってるの?」
 と、令和の次の世で若者に驚かれたならば、
「それどころか、私のおばあちゃんは明治生まれだったのよ」
 と、さらに驚かせてあげたいものだと思います。

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