日本人による英語の論文が、文意が通っていないとして(学術的な成果とは関係なく)評価対象にならないケースがしばしばあるようですが、これも、文意を定めないまま書くクセがついていることが原因といわれています。論文ですらそうなわけですから、これが話し言葉で書いた文章ということになると、ますます文意が通りにくくなってしまうでしょう。
お互いをよく知っている間柄であれば、話し言葉であっても何の問題もありませんが、これからの時代はそうはいかないでしょう。グローバル化というのは英語を話すことだと思っている人が多いのですが、そうではありません。本当の意味でのグローバル化というのは、異なる文化や習慣を持つ他人とスムーズにやり取りすることを指しています。
ここでいう異なる人たちというのは、外国人とは限りません。男性と女性、高齢者と若者、職業の違い、宗教の違いなど、同じ国民でも異なる文化を持つグループはたくさんあります。異なる相手とスムーズにコミュニケーションできる能力があれば、言葉が違う人が相手でも大きな問題は発生しません。
しかし、異なる属性の人とうまくやり取りができない人は、当然のことながら外国人とやり取りすることも難しくなるでしょう。英語を一生懸命、覚えたところで問題はまったく解決しないのです。
社会が多様化する時代においては、バックグラウンドの異なる人たちと一緒に仕事をする能力が強く求められます。令和の時代には「あうん」の呼吸だけでは仕事はできないのです。
このような時代に、スムーズに他人とコミュニケーションするには、書き言葉が非常に重要です。
最近は「曖昧で、はっきりしない」という意味で「ふわっとした」という言い方をする人が増えていますが、こうしたスラング(俗語)は、共通のパラダイムに属している人でなければ相互理解はできません。相手が同じパラダイムに俗している保証がない場合には「曖昧な」といった汎用的な言葉(さらにいえば表意文字である漢語)に置き換えて話す必要があります。
こうした文章の汎用化を実践するには、話し言葉ではなく、書き言葉を基本にする必要があります。文章を書くときはもちろんのこと、ある程度、フォーマルな場で話をするときには、頭の中で論旨を整理し、文章を書くような流れで話をした方がよいでしょう。
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