均質性の高い社会で、対話の能力は育たない


話を入試問題(あるいは各種教材)に戻そう。

「会話文」と呼ばれるものが、そこに入ってくるときには、二点の問題がある。
まず、繰り返し指摘してきたことだが、「会話文」と言いながら、それが会話である必然性がなくリアルでもない点。文章に例えるなら「悪文」である。わざわざ悪文を試験問題や教科書教材にすることは今までなかった。しかし、試験問題を「会話文」に関する素人が作成しているために、これが悪文であることにすら気がついていない。これが第一の問題。

二点目は(こちらの方が重要なのだが)、会話文にしたからといって「対話的な学び」の教材や試験問題になるわけではないという点だ。自然状態では対話は起きない。特に私たち日本人は、日常生活では、ほとんど対話を行う習慣がない。
だから、もし「対話的な学び」を実現したければ、何かもう一つ、別の要素が必要なのだ。私はそれを「フィクションの力」と呼んできた。

他者への寛容を学ぶために。「対話的な学び」に必要なもの_img0
 

そもそも日本の子供たちは同調圧力が強いので、通常の問題を出して「はい議論しなさい」と言っても、「まぁ、こんな感じだよね」と、すぐに正解を探そうとする。異なる文化や宗教を持った子供たちが一つの教室の中にいる欧米とは、教育の環境自体が異なるのだ。だから、欧米型のアクティブラーニングをそのまま輸入しても無理がある。逆に言えば、今までは「対話」の能力は、教室では求められてこなかった。異なる価値観を持った他者など、学校には存在しなかったから(存在しないことになっていたから)。そうであるなら、「対話」について、学校でそれを教える必要もなかった。
 

大切なのは「議論せざるを得ない状況」を作ること


しかし、そうも言っていられない時代になってきた。ただ、ここで悩ましいのは、日本ではまだ、「異文化」を背景とする生徒はきわめて少数派だということだ。

もちろん、ここではいくつかの注釈が必要だろう。「異文化」とは、異なる母語や宗教のことだけではない。日本人同士でも、子供たちは本来、様々な価値観を持っているはずなのだが、それが隠蔽されやすい点が問題なのだ。だから、本来は異なっているはずの様々な価値観を引き出していく工夫が、欧米の教室以上に必要となってくる。たとえばそれは、これまで本連載で取り上げてきた以下のような例である。

「2030年に日本が債務不履行状態になって、国際通貨基金の管理下に置かれた。国際通貨基金からは本四架橋三本のうち二本を廃止しろと指令が来た。さてどの二本を廃止するか、兵庫県、岡山県、広島県、徳島県、香川県、愛媛県の各県代表と議長一人の七人で討論劇を創りなさい」

「2025年、兵庫県豊岡市で野生復帰したコウノトリが増えすぎて、近隣の町で登校途中の子供を襲うという事件が発生しました。市役所に対策委員会を作ることになったのでステークホルダーを洗い出して、その会議を討論劇にしなさい」

このように、議論をせざるを得ないような状況を教室の中に作り出していかなければならない。ここに、劇作家の私が、大学入試問題について長々と連載を続けてきた意味がある。

だからたとえば、別掲の設問と「会話文」であるなら、以下のような文章に変えるべきではないだろうか。

父 いやいや、斉藤さんのところも引っ越しらしいよ。
姉 え、どうして?
父 だって、街並み保存って言ったって、木戸をサッシにも変えられないんだからさ。
姉 え、そうなの?
父 そうだよ。斉藤さんのとこはおばあちゃんがリウマチで寒さが応えるんだよ。
姉 でも、街並み保存自体は、みんなで決めたことでしょう。外国人観光客も少しずつ増えてるみたいだし。
父 外人が来て儲かるのはホテルと土産物屋だけだからね。
姉 そんな、それってただの嫉妬じゃないの?
父 違うよ。みんな、それぞれ生活があるんだよ。

(つづく)

 

前回記事「思考力を試す会話文設問。“会話のプロ”が指摘する問題と矛盾」はこちら>>

 
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