先日の聖子ちゃんコンサートの記事、かなりの反響がありました。特徴的だなと思ったのが、コメント欄で聖子ちゃんについて熱く語っていた方が多かったこと。皆さんの「聖子ちゃんについて語りたい!!」という気持ちが伝わってくるようでした。
それぞれ個人的な「聖子ちゃん論」があって、みんなが聖子ちゃんの魅力を分析している。ここまでみんなを熱くさせる聖子ちゃんって、やっぱりすごい……! と感動した次第。
そこで私はまたまた考えたのです。
「私たちは、なぜこんなにも松田聖子に魅せられるのか?」
それを語る前に、まず、聖子ちゃんファンにも微妙な世代差があり、私は聖子ちゃん全盛期に小学校低学年だったということに触れておきたいと思います。
「渚のバルコニー」辺りがたしか小学2年生。まだ自分のお小遣いで好きなアイドルのレコード(!)を買うような意識もなかったため、聖子ちゃんの曲といえばシングルのA面曲かCM曲がメイン。新曲の情報源は主にベストテンと「ヤンヤン! 歌うスタジオ」、ラジオの「コーセー歌謡ベストテン」でした。
TVかラジオで聖子ちゃんの曲が流れるのをカセットテープで録音し、『月刊 明星』についてくる付録の「ヤンソン(たしかヤングソングブックの略)」で歌詞を一生懸命覚えて歌った世代です。
なので当時聖子ちゃんと同世代だった方たちとは違い、聖子ちゃんカットを真似することもなければ、“ぶりっ子”と揶揄される聖子ちゃんに反感を覚えることもなく、「きれいなお姉さん」だと憧れるのみ。
以前、酒井順子さんがユーミンのコンサートでバブル世代の方達が感じる郷愁について書いていましたが、聖子ちゃんの曲を聞いたり彼女について語るとき、我々アラフィフ世代が感じる感覚というのは、あれに通ずるものがあるのだと思います。
ラジカセ、ベストテン、ヤンソン、そして小学校の遠足のバスの中でみんなで歌った聖子ちゃんの新曲、などなどの懐かしい記憶も込みで、私たちの脳内に再生されてしまう。
そんなわけで聖子ちゃんというのは我々ファンにとっては侵されてはならない、もはや「聖域=サンクチュアリ」のような存在。
生半可な気持ちで語ることは許されない空気があり、だからこそ聖子ちゃんについて書くのはとっても緊張します。
と、ついつい前置きがだいぶ長くなりましたが、本題に入ろうと思います。
パリス・ヒルトンブーム以前に、日本には「松田聖子」が居た。
海外セレブウォッチャーの私らしく分析するとしたら、こういうことだと、私は思うのです。
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