令和の皇室の特長、歴代皇后のなかで雅子さまを象徴するキーワードとは?
日本は西暦と元号をうまく使いこなしている世界でも珍しい国です。昭和、平成、令和と26年間、皇室を取材してきた毎日新聞社の大久保和夫記者は、「歴史を一冊の本に例えるなら、西暦は本のページ数にあたり、元号はその本のチャプター(章)といえます。近代以降、明治、大正、昭和、平成そして令和。それぞれにチャプターとして区切られる時代相が浮かび上がってきます」と言います。そんな見方からすると、果たして「令和のチャプター」にはどのような内容が盛り込まれていくのでしょうか。
前回に引き続き、大久保和夫さんにお聞きしました。
大久保和夫(おおくぼ・かずお) 毎日新聞社会部に在籍し、宮内庁を中心に、皇宮警察をはじめとする皇室関連の取材を26年続けている。皇室を通して日本と日本人について考えることを大きなテーマにしながら、70歳を過ぎても現役記者として活動している。
自然体で人々に接する雅子さま流とは?
皇太子さま(今の天皇陛下)と雅子さまが、愛子さまを連れて那須にご静養にいらしたときのことです。
3歳になった愛子さまと手を繋がれ、ご一家でご静養のため那須御用邸へ。2005年8月10日、那須塩原駅にて。写真/ロイター/アフロ
「何かの用事があって皇太子さまが先に帰京され、9月に入ってから雅子さまと愛子さまお二人で新幹線で東京駅にお戻りになったことがありました。
私たちは取材のためにホームの端の方に立っていました。すると、愛子さまを抱っこしてホームを歩いて来られた雅子さまが、階段の手前で歩くべきルートを外れ、ギュッと曲がって私たちの方に向かってきたのです。『東京もだいぶ涼しくなりましたね』などと、気さくに話しかけてくださいました。
顔見知りがいたから、すっと近寄って話しかけた、そのご様子がいかにも自然なんですね。自分の思いや気持ちをそのまま自然体で表す雅子さまのお振る舞いが出ていたと思います」
それは皇室ではあり得ない、一瞬の出来事だったそうです。護衛の人たちはホームをまっすぐ歩いて階段を降りる、という想定で警備をしていますから、急なルート変更にさぞ驚いたことでしょう。
一般の人ではそれがごく普通の行動ですが、皇室の方々のスケジュールでは、分秒単位で、歩かれる場所も時間もきちんと決められています。そうした中での雅子さまの動線の変更は新鮮なものがあったといいます。
「国民とともにある皇室」を継承
東日本大震災の復興状況視察を終え、新幹線で帰京の途につかれる皇太子ご夫妻。2017年11月1日、宮城県・仙台市にて。写真/毎日新聞社/アフロ
近代以前の天皇は、御所から出ることはほとんどありませんでした。出るときはいつも輿に乗って移動し、地面に足をつけることすらなかったのです。
「被災地にお見舞いに行くことを、平成の天皇陛下(今の上皇陛下)と美智子さまはなさいました。それは明治、大正、昭和の時代の天皇もされなかったことです。
平成の時代はまず昭和天皇の喪に服したため、1990年(平成2年)に即位礼が行われました。ところが、即位礼正殿の儀が行われた5日後の11月17日、長崎県の雲仙普賢岳が大噴火します。
翌年6月には火砕流が発生し、43名の死者・行方不明者、9名の負傷者を出す大惨事となりました。その惨状を憂いた当時の天皇陛下と美智子さまは、7月に被災地をお見舞いし、直接被災者に声を掛けられたのです。即位式直後の発災は、大災害が続出した平成という時代を暗示するような感じがします。
被災状況がまだ回復していない段階で被災地に直接行ったのは、歴代天皇のなかで初めてのことでした。さらにお二人は、被災者をお見舞いするときに、床に膝をついて言葉を交わされたのです。これを皮切りにして、阪神淡路大震災、東日本大震災はもちろん、新潟も北海道も九州の災害の時にも同じようにひざまずいて被災者に話しかけられるようになりました。
こういったことが積み重なって、やがて国民も平成の天皇の象徴としてのなさりようを理解するようになり、次第に皇室への敬愛を抱く人々が増えていったと思います。
令和の天皇陛下と雅子さまも、一連の即位の儀式を終えた昨年12月に台風被害のあった東北に行かれたことでも分かるように、国民とともにある皇室のあり方を引き継いでいかれることでしょう」
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