私は確かに今日もよく働いた。働いたあとのよく冷えたビールはおいしい。けれど、佐藤が今日何をしていたか私は知らない。父親ほど年齢が違うということ、資産家であること、いくつかのクリニックの経営をしていること、私が知っている佐藤直也という人間のデータは驚くほど少ない。左手の薬指に結婚指輪はない。けれど、いつか口にした、息子が、という言葉で子どもがいることを知った。
「君はそもそもどうして皮膚科医になろうと思ったのか?」
挨拶すら満足に交わさず、佐藤に会ったときに最初に聞かれた質問がそれだった。
「重篤な患者もおらず、急患が飛び込んでくることも少ない。命に関わることがない医療だからです」
君は正直な人間だ、と佐藤は笑った。
その言葉に嘘はなかった。医師として誰かの命を救いたい、などと今まで一度も思ったことはない。そんなことが自分にできるとは思いもしなかった。なぜだか勉強だけは子どもの頃からできて、将来なるのなら、弁護士か医師か、と漠然と思っていた。高校生のとき、いよいよ進路を決めるぎりぎりの時期になって、私はサイコロをふたつ振った。出た目の合計が偶数なら弁護士、奇数なら医師。それだけの理由で医師を選んだ。
皮膚科医として大学病院に勤務していた頃、世間が想像するような額の給与は与えられていなかった。それでも皮膚科医としての仕事はもう目をつぶってもできるくらい、私の医師としての腕は熟練していた。ここまできたのならいっそ次のステップに進みたい。開業をしたい、という思いは四十過ぎに離婚をして、より強くなった。
都内で一番偏差値の高い中高一貫の私立校に進んだ息子には、どんな教育でも受けさせるつもりだった。彼が希望をするのなら院にも、留学もさせる気でいた。だが、彼が中学三年の頃に、母がアルツハイマーを発症した。日々、病状は悪化した。仕事をしながら介護などできない。老人介護施設に入れる必要があった。息子の学費と母親の介護費、そのふたつが離婚した私の肩にのしかかってきた。けれど、皮膚科として開業したとしても、それをまかなえる自信が自分にはなかった。
その頃、都内には数えるほどしかなかった先輩の美容皮膚科クリニックに勤務したあと、先輩の派手な暮らしぶりをみて、自分もクリニックを持ちたいと強く願った。皮膚科医よりも、美容皮膚科医のほうが稼げる、と確信した。
しかし、ざっと見積もっても開業には六千万はかかる。購入したマンションのローンの返済すら危うい自分には、そんな金額は用意できない。その頃、大学の同級生で美容皮膚科を開院した友人に紹介されたのが佐藤直也だった。渋谷の高級住宅街にオープンするクリニックの美容皮膚科医を探している、と聞いた。
「なぜ皮膚科医になろうと思ったのか?」という質問のあとに、佐藤は、「毎月、いくら欲しいのか?」と尋ねてきた。金額を口にするのはためらわれた。私はバッグから手帳を出し、ブルーブラックの万年筆で数字を書き、佐藤の前に差し出した。多すぎる額だとは思ったが、それほどのお金がその頃の私には必要だった。
「月に一度、仕事の話のあとに僕とつきあうのなら」
そう言って、佐藤は私の手から万年筆を受け取り、七桁ある数字の二桁目の数字を増やした。
佐藤の提案に悩まなかった、といえば嘘になる。愛人計画のようなものなのだ。そんな噂はいくつも耳にしていた。オーナーと雇われ医師が、実は愛人関係である、という噂。金で雇われ、金で買われる。当然、佐藤の提案も肉体関係を結べ、ということなのだろうと思っていた。私は無言でその数字を見つめていた。
「君が考えているようなことを僕が君にすることはない。ただ、月に一度、食事をして、ホテルの部屋で君とベッドに寝そべりながら、たわいもない話をしたい。死に行く老人の願いを月に一度、叶えてくれるだけでいい」
そう笑いながら佐藤に言われてももちろん素直にそうですか、と思ったわけではない。それでも、私はその条件をのんだ。柴犬のように笑う佐藤の笑顔になぜだか嘘がないだろう、という気がしたのだ。
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