最初に佐藤とホテルの一室に入ったときの緊張は今でも覚えている。
 佐藤は部屋に入ると、上着を脱ぎ、靴下を脱ぎ、ネクタイを緩めて、すぐさまベッドに横たわった。立ち尽くす私に、さあ、君も、というように、自分の隣を手で叩く。私も靴を脱いで佐藤の横にゆっくりと横になった。佐藤が話を始めた。そう、それは本当にたわいもない話だった。佐藤が家で飼っている猫の話、つまらなかった会食の話、最近見た映画の話。いつ終わるともしれない佐藤の会話を、私はただ黙って聞いていた。会話の途中でふと、佐藤が私の手をとり、その指を撫でることもあったが、ただ、それだけのことだった。毎回、会うたびに、何かされるのではないか、と思ったが、それは杞憂に終わった。
 時折、佐藤は私に仕事のアドバイスめいたことを口にすることもあった。
「注入治療はやり過ぎてはいけない。俳優やタレントを見て、君ならすぐに気づくだろう。こいつ、入れたな、と。人から見て、すぐにわかるようならやり過ぎなんだ。あくまでも自然に、ごく少量に。君はふだんの生活で何を見て美しいと思うか?」
 その問いにすぐには答えられなかった。黙っていると、佐藤が私の手をとり、撫でた。
「君の手は美しい。年齢相応だ。働いてきた女性の手だ。僕の母の手とよく似ている」
「ああ、虹が……」私は慌てて口を開いた。
「虹?」
「ええ、昨日の夕方、豪雨が降ったあとに、クリニックの窓から二重の虹がほんの一瞬だけ見えたんです。虹なんか見るの久しぶりで、みんなで写真を撮りました」
「そうして、それをSNSにアップした」
 図星だったのでバツが悪かった。
「本当の美しさはネットには存在しない。美しさをスマホのカメラで切りとってはいけない。誰かの視線で物を見てはいけない。誰かが風景から切り取った残酷な欠片を美しさと勘違いしてはいけない。どんな美術展でも美術館でもいい。少しでも多く足を運びなさい。歌舞伎や能や文楽でもオペラでもバレエでもいい。生でその美しさを君の網膜に直に焼き付けなさい。美容皮膚科医は、いったい何がこの世で美しいものなのかを考える哲学者でもあるんだ。僕の言うことを聞きなさい。君は一流の美容皮膚科になるんだ。わかるか?」
 私はただ頷くしかなかった。佐藤はひととおりの話を終えると、かすかに寝息を立て始めた。私はこのあと、いったいどうしたらいいのだろう? と思いながらも、佐藤を起こさないように、佐藤の体の下にあった掛け布団をそっとずらし、佐藤の体にふわりとかけた。ふーっと息を吐いて、冷蔵庫に入っていたペットボトルの蓋を開け、一気に飲んだ。喉が鳴る。自分がひどく緊張していることがわかった。これくらいのことなら、たわいもないことだ。佐藤の話を聞いているだけでいい。それで、私はあの金額を手にすることができるのだ。首をぐるりと回すと、こくり、と鈍い音がした。体をかわす必要はない。そのことに私はひどく安堵していたが、それでも、体と心はひどく疲れていることに気づいた。そのとき、私の頭にひどく残酷な四文字が浮かんだ。老人介護。介護だと思えばいい。佐藤の食事につきあい、とりとめのない話につきあう。それだけで、私は美容皮膚科の院長と名乗ることができる。スタッフの給与を遅れることなく払うことができる。息子の学費や、母の施設のお金や、自分が生きていくためのお金を払っても、まだ残るほどのお金を佐藤から引き出すことができる。
 そんなことを部屋の窓から見える夜景を見ながら考えていると、佐藤の声がした。
「ペットボトルの水はコップに注いで飲みなさい」
 振りかえると、佐藤が目を開けて笑っていた。
「ああ、もうこんな時間か」
 ベッドサイドの時計を見ながら佐藤が呟き、体を起こした。
「老人の戯れ言につきあうだけでいいと、わかっただろう」
 私は頷いた。柴犬のような顔で佐藤が微笑む。なぜ、自分が佐藤に嫌悪感を抱かないのか、その顔を見てわかったような気がした。今はもういない父にどこかしら佐藤は似ているのだった。