その日の夜も仕事の打合せを兼ねて食事を終えたあとは、佐藤がとった部屋に向かった。クリニックからも近いホテルだ、患者さんの誰かに出くわす、ということだけは避けたかった。エレベーターの中でも佐藤から距離を取り、ほかの客の視線を遮断するように俯いていた。
「君はこの一ヵ月で何か美しいものを見たか?」
 それは佐藤から私に向けられる課題のようなものだった。佐藤にそう言われるようになってから、クリニックから歩いて数十分ほどの場所にあるデパートに併設した美術館には必ず足を向けるようにしていた。休みの日にも都内の美術館に出かけた。歌舞伎や能や文楽を見るのもいい、と言われてはいたものの、チケットをどうやって取ればいいかわからず、まだ、一度も見たことはなかった。そもそも、勉強だけが取り柄だった自分は、美術にも芸術にも明るくはないのだ。
「ミュシャを見ました」それはデパートに併設されている美術館で見たものだった。佐藤はただ頷いただけだった。
「君のクリニックの近くに、美術館があるだろう」
 そうして、佐藤は私も耳にしたことがある美術館の名前を口にした。
「あの美術館を建築した白井晟一はモダニズム建築が求められた二十世紀において、その流れに逆行した建築家の一人なんだ。ほかの建築家が角のあるパースペクティブな空間を設計する一方で、白井の設計したあの館にはひとつも角がない。すべての場所において。直線のなかに美しさはない。美しさはすべて曲線で作られている。ミュシャの絵を見て君もそう思ったはずだ」
 私は訳もわからず頷いた。
「美容皮膚科と美容整形外科とは違う、と君は思うかもしれないが、君のクリニックでは注入治療もしている。尖り過ぎた鼻を君は美しいと思うか?」
 いいえ、と首を振った。
 椅子に座っていた佐藤が立ち上がり、窓のそばに近寄る。私は少し距離をとって、佐藤の横に立った。
「今や美容整形クリニックは金のなる木だよ。この東京に星の数ほどある。僕もいくつか、そういうクリニックの経営に携わっている。けれど、女を美しくしないクリニックになんの意味があるだろう。眉間から盛り上がった鼻、風船のように膨らんだ唇、バスケットボールのような胸。全部間違いだ。美しくはない。何が美しくて、何が醜いのか、医師のなかで確固たる価値観ができあがっていなければ、女の顔をいじることなんてありえないんだよ。君にそういう医師になってほしくない」
 はい、と答えた自分の声がかすかに掠れていることに気づいた。
「君も自分の顔をいじりすぎてはいけない。皺やしみがなさすぎる肌というのも、それはそれで不自然なものだよ。君は今のままでいい。若返ろうなどと考えるな。今の年齢で最高の美しさを。患者さんに対してもそうだ。患者の希望をすべて鵜呑みにしてはいけない。ストップをかけることも君の重要な役割だ」
 そう言って佐藤の手が伸び、私の頬に触れた。私の体がぴくりと、かすかに震えた。佐藤の手は頬を撫で、顎に伸びる。
「ここに少しざらつきがある。明日、スタッフにでもとってもらえばいい」
 そう言って笑った。佐藤の手は乾いていた。汗ばんでもいない。佐藤の年齢は多分、七十代と考えていたが、正確な年齢は知らない。自分の顔から離れた佐藤の手の甲を見た。いくつかのしみがあり、血管が浮き出ている。年齢相応の手だった。今日、やってきた箕浦さんの言葉を思い出した。もう、これで、おばあちゃんの手だって言われなくてすむわ。佐藤の手を私はヒアルロン酸の注射で若返らせることができる。けれど、それは佐藤の望むところではないのだろう。
 若返りたい、という希望は、美醜にこだわる欲望は、女のほうが格段に強いと私は思う。花の命は短くて。そう、女が女でいられる時期は、女が、そして男が思っている以上に短い。そのとき、ふいに頭に浮かんだ。自分のことだ。女として枯れかけている。レーザーで肌を焼き、薬剤で表面を溶かし、皺やしみをとり、四十七歳には見えない、とまわりの誰かに言われても、自分はもう女ではないという事実にうちのめされる気がした。
 私は窓の外に目をやった。いったいいつまで続くのか、無残に土地を掘り返され、何かが作られようとしている渋谷の町が窓の下に広がっていた。新しい渋谷の街ができあがる頃には自分はいくつになっているのか。
 振りかえると、佐藤はベッドに横になり、目を閉じている。眠っているわけではないのだ。私はそっと佐藤の隣に体を横たえた。ふいに乱暴な想像が頭をかすめる。佐藤の体の上で、髪を振り乱し、腰をふる自分の姿だ。そんなことは死ぬまでもうないだろう、という自虐の気持ちが生まれる。自分の人生から性が消えていく。表面だけ年齢相応ではない美しさを保ちながら、私は女ではない何者かになりつつある。私はいったいどこに向かっているんだろう、そう考えると、この高層階のホテルの一室の空気がすっと重くなる気がした。
 佐藤の体に身を寄せた。そんなことをしたのは、佐藤と会うようになって初めてのことだった。体臭など一切せず、汗くさくもなく、ただ、どこかスパイシーな香料の香りが鼻腔をくすぐる。さっき見た佐藤の手が私の髪をなでる。柳下さんが巻いてくれた髪だ。声をあげて泣きたくなって、けれど、佐藤の前では絶対に泣きたくはなかった。ぎゅっと目を瞑り、唇を噛んで耐えた。
「君は頑張っている」
 いつも誰かに言われたかったことを佐藤に言われて、視界に紗がかかった。