夏の終わりにお決まりのように降るゲリラ豪雨が上がり、体中の汗腺をすべて塞いでしまうような湿度の高い夕暮れが訪れた。
患者さんからの強い要望があり、内服薬と外用薬を使った薄毛治療をスタートさせ、一ヵ月が過ぎた。もちろん、その治療を開始したことをHPに記載した。女性だけでなく、男性の治療もお受けします、と。とはいえ、医師が女性であると男性にはハードルが高いのか、女性の患者がほとんどだった。
午後五時以降になると、会社帰りの患者さんが増えてくる。それでも完全予約制をとっているから、予診票を見て、あと三人の患者さんを診れば診療を終えられると、ほっとしてもいた。
クリニックの受付の奥に診察室があり、私が受付横にある待合スペースのソファに座っている患者さんを呼ぶ。診察室のドアが開くと、眼鏡姿の男性がマスクをして、体を小さくしている。「業平さん、どうぞ診察室へ」と名前を呼んだ。彼が私のデスク横の椅子に座る。三十代くらいだろうか、と予想をつけて、予診票を見た。三十三歳、会社員。上着を手にしているが、細いストライプの半袖のシャツが汗か、雨に濡れたのか、細かい皺をつけていた。緊張で体をかたくしている。受けたい治療の項目の欄では薄毛治療にチェックがつけられている。
「外で雨に降られませんでした?」
私はそう言って、彼にタオルを差し出した。驚いたような顔をしてタオルを受け取る。彼がぎごちない様子でおざなりに顔や腕を拭いた。
「ありがとうございます」張りのあるよく通る声だ。
「今日は薄毛治療ということですよね。内服薬と外用薬でよくなります。最初に血圧測定と採血をさせていただきますけれど、それは大丈夫ですか?」
彼が子どものように頷く。差し出された腕の内側の皮膚のきめの細かさに若さを感じた。ベルトを巻き、血圧を測ったあとに、注射器を用意した。彼が顔を背ける。子どものようだ。それがおかしくて笑いをかみ殺した。
「私、うまいから痛くはないですよ」
「子どもの頃から、注射が大の苦手で……」
注射器の中に濃く深い赤が満たされていく。
「はい。もう終わりです」
注射が終わって少し緊張もほぐれたのか、彼がマスクを取る。
「こういう病院に来るのも初めてなので……」
「受付も女性ばかりでごめんなさいね。男性用の待合スペースも作りたいのだけれど、何せ、クリニックが狭いでしょう」
そう言いながら、彼の顔を見た。眉毛が太く、髭の剃り跡が青々としている。体毛も濃いタイプなのだろう、と医師の頭で考えた。
「じゃあ、少し、頭皮のほうを見せてもらいましょうか」
そう言って私は立ち上がった。彼が頭を下げる。確かにつむじのあたりが薄くなっている。
「シャンプーっていつしてます?」
「会社から帰ったあとは死んだように眠ってしまうので、だいたい朝ですね」
「できれば夜のほうがいいですよ。髪って寝ている間に成長するので、睡眠中に髪が不衛生だと髪の成長を妨げてしまうんです。それから自然乾燥じゃなくて、ドライヤーでちゃんと乾かすことも大切」
「はい……毎朝、起きると、枕に髪の毛が落ちていて。それが恐怖で恐怖で。このあたりの毛根ってもう死んでるんですかね?」彼がつむじのあたりを指差して尋ねる。
「手術でもして皮膚同士がくっつくような場合でない限り、毛根が死ぬってことはありえません。ただ、今の状態だと生えにくくなっている、というのが現状かな」
私の話を聞く彼の顔は真剣だ。
「早く直したいのなら、メソセラピーっていう方法もあります。レーザーと超音波を頭皮にあてて成長因子を直接注入していく方法もあるんですけれど、ただ、そちらだと少し価格が」
「いや、すぐにでも直したいんです!」
「二週間に一度、通っていただくことになりますけれど、お仕事のほうは大丈夫?」
「十二月の結婚式までになんとかしたいんです!」
ああ、そういうことか、と納得した。
「じゃあ、今日から、始めましょうか」
そう言うと、彼はやっとほっとした笑顔を見せた。
半地下の施術室に案内し、診察ベッドに寝てもらい、施術を始めた。
「彼女と夏に旅行して、彼女に言われて気づいたんです。エスカレータの後ろに彼女が立っていて、ここ薄い! って大声で。絶対、結婚式までに直してほしい、って」
彼がぽつり、ぽつり、と話をするのを聞きながら、私はレーザーを彼の頭皮に当てていく。彼に近づくと、むっとした若い男のにおいがした。
「彼女も今、結婚式の準備の真っ最中でしょうね」
「給料はたいてエステに通ってます……」
「大事な日は綺麗でいたいですもんねえ」と紋切り型の答えを返す。
結婚式前に、このクリニックに駆け込んでくる女性は多い。一生一度の晴れ舞台に最高に綺麗でいたい、という気持ちは理解できる。大事な患者さまであることには変わりないのだが、私自身は結婚式もしなかったし、ウエディングドレスも着なかった。そもそも、そんなことをする経済的な余裕がなかったし、それよりも、日々おなかが大きくなっていく自分の体で、どうやって仕事をこなしていくか、しか頭になかった。あれほど注意していたのにもかかわらず、子どもが、できてしまった。生まれてきた息子にそんなことを口にしたことはもちろんないが、想定外の妊娠だったことには間違いがない。
彼が三十三ということは私の十四歳下、ということか、とぼんやり考えながら、私は施術を続ける。その言葉を、それから自分が何度も心のなかでつぶやくようになるとは、彼と最初に会ったその日には思いもしなかった。
「親父は髪がふさふさなんですよ。だから、僕も絶対に禿げるわけがないと思いこんでいて……」
「どっちかって言うと、母方の遺伝子が強く影響する、っていう説もあります」
私がそう言うと、
「ああーーー」と納得するような声を上げた。
「実家に帰るたび、洗面所に通販で買った育毛剤が並んでました」
「お母様にも来てほしいかな。こういうクリニックの院長としては。養毛剤も安いものではないでしょう?」
少し間を置いて、彼が口を開いた。
「母は半年前に亡くなったんです」
思わず手がとまった。
「……ごめんなさい。余計なことを言って」
「いえ、いいんです。すみません、なんか、僕のほうこそ」
彼のほうがしきりに恐縮している。施術中に患者さんがプライベートなことを打ち明けるのは珍しいことではない。離婚、不倫、死別。そういう出来事があって、このクリニックに足を向ける患者さんは多い。そういう話を聞くことにも慣れているはずなのに、彼の母親は息子の結婚式には出られないのか、と心のどこかがかすかに痛んだ。
施術を終えた彼はどこか晴れ晴れとした顔をしていた。患者さんをドアまで見送るのはいつものことだが、誰もが皆、来たときよりも、背筋がすっと伸び、表情は明るい。その顔を見ることが好きだった。仕事のやりがい、と言ってもいい。
会計を済ませた彼はもうマスクをしようとしなかった。
「じゃあ、二週間後にまたいらしてくださいね」
「はい」そう言うと、彼は初めて笑った。犬のような笑顔だった。どこか佐藤直也を思わせた。チリン、とベルを鳴らして、ドアを閉める彼の背後に、夏の夕暮れの空が広がっていた。
「あの人、いい感じの人ですねえ」
診察室に戻ると、次の患者さんの予診票を持って来たスタッフの下田さんがどこか夢見がちな声でささやく。
「ああいう人がタイプなんだ」私は茶化すように言った。
「なんか、いい人そうだし」
「だけど、冬に結婚されるそうよ」
「ちぇーっ」と下田さんが口を尖らせる。
「いい男は足が速いですねえ」
「そんなこと言っていないで、次の患者さん呼んで」
「はーい」と間延びした返事をしながら、下田さんが診察室を出て行く。
結婚式を控えたただの患者さんの一人。そのときは私だってそう思っていた。彼と深い縁を結ぶことなど想像もしていなかった。
次回更新は、8月12日(水)予定です。
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カバー画像/
O'Keeffe, Georgia (1887-1986): Abstraction Blue, 1927. New York, Museum of Modern Art (MoMA). Oil on canvas, 40 Œ x 30' (102,1 x 76 cm). Acquired through the Helen Acheson Bequest. Acc. n.: 71.1979.© 2020. Digital image, The Museum of Modern Art, New York/Scala, Florence
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