公平の話はすべて自分の結婚破談話に集結していく。そのことを悔い、誰かに聞いてもらいたがっている。しかも母まで亡くしている。そこに自分のような話を聞いてくれそうな人間があらわれたのだ。懐かれているのは、そのせいだ。彼の立場は弱い。私のほうが上にいて、彼の話を聞いて、あげて、いる。そのときはまだ、そう思っていた。
「LINEすごいね」
「迷惑?」
「いや、いい気分転換。それにしても、全国各地に行くものなんだねえ」
「僕、会社のデスクでじっと座って日が暮れるまで仕事しているのが苦手やねん……日本全国動けるから、営業職を選んだようなもんで。あのう……」
「何?」
「ほんまに僕、赤澤さんとタメ口でええんですか?」
「だから、何度でも言うけれど、敬語が」
「敬語が嫌い。お酌するのもされるのも嫌い。だけど、食べ物の好き嫌いはない、と」
「そうだよ」
「自分のなかに赤澤さんのデータがたまっていくわ」
 もし、業平公平という一人の男のどこを好きになったのか、と聞かれたら、最初に好きになったのは、その声だった、と答えるだろう。公平の声が、言葉が、自分のどこか……それは普段誰にも見せたことのないような部分、を押し開いて、侵入してくるのを感じていた。この夜にはまだ公平に対する好意はなかったと思う。けれど、私は感じていた。
 公平という男が、モノクロームだった自分の世界に色をつけ始めていることを。
 今までは耳に入らなかった小鳥のさえずりや、視界に入ってはこなかった蝶のはばたきの存在を認識した。世界は色と音で満ちている。それを教えてくれたのは、公平から送られてくる大量のLINEに添付された写真や、公平が仕事で訪れた日本全国の町の写真だ。そして公平自身が、自分以外誰も存在しなかった閉じた世界に、風穴を開けようとしている。友人と呼べるような人間は数えるほどしかいない。親しい友人など皆無だ。自分にとって佐藤直也がそうであるように、クリニックのスタッフにとって、自分は雇い主、という存在でしかない。玲は大学生になり、彼自身の人生を歩みはじめている。失いたくはない。業平公平という人間を失いたくはない。好意が生まれる前に私は強くそう思った。
「ときどき、また、こうやってごはん食べてくれる?」
「よろこんで!」
 公平は笑って言った。この男を絶対に失いたくはないと、私が心から思っているとは知らずに。

 


次回更新は、9月9日(水)予定です。


ミモレインタビュー
「【小説家・窪美澄さん】40代の先に、ご褒美のような50代が待っている」>>

『私は女になりたい』(6)_img0
 

『私は女になりたい』
窪美澄 予価 本体1600円(税別)(2020年9月14日刊行予定)

主人公の赤澤奈美は、アラフィフの美容整形外科医。カメラマンの元夫とは離婚し、シングルマザーとして息子を育てながら仕事一筋で生きてきた奈美だが、14歳年下の男性患者・公平と恋に落ちて……。


カバー画像/
O'Keeffe, Georgia (1887-1986): Abstraction Blue, 1927. New York, Museum of Modern Art (MoMA). Oil on canvas, 40 Œ x 30' (102,1 x 76 cm). Acquired through the Helen Acheson Bequest. Acc. n.: 71.1979.© 2020. Digital image, The Museum of Modern Art, New York/Scala, Florence