息子に怯える母親
当院の受付で、以下のような親子のやりとりがありました。
靖史さん(57歳)「お母さん、保険証は?」
和子さん(84歳)「あれっ、カバンにないよ」
とおどおどしながらポケットに手を当てる。
靖史さん「違うじゃん、そこじゃないでしょ。いつも言ってるでしょ、カバンの内側でしょ」
じつは靖史さんは一緒に出てくるときには保険証を確認し、和子さんに渡してカバンの所定の場所に入れさせてありました。
和子さん「あれっ、やっぱり、ないよ」
ほとんど怯えに近い自信のない声で答える。
靖史さん「だから、そこじゃなくて、こっちでしょ」
結局、靖史さんが所定の場所から保険証を取り出し、受付に渡す。
診察の折に和子さんの隣に座った靖史さんに、このやりとりについての顛末を聞きました。靖史さんは根っからの母親思い。訓練すれば認知症の進行が遅くなるという固い信念があるようでした。だから受付での母親に対する厳しい訓練に繋がったと言います。
私は和子さんにそっとこう尋ねました。「ねぇ、息子さんに怯えてるんでしょ」。すると和子さんは、いきなりその場で泣き出してしまいました。靖史さんもその姿を見て唇を噛みしめ、言葉を失っていました。
「もの忘れ」に対してすべきこと
靖史さん、当院に診察に来る前までに和子さんに「どうして忘れるのっ」というセリフを日常的に連呼していたようです。和子さんが怯えるのは当然です。人間関係は悪化の一途です。
まずそうならないために「記憶のしづらさ」は「もの忘れ」ではないことを知るべきです。認知症予防の怪しげな情報に踊らされ、「頑張れば、進行しない」ことに軸足を置いて認知症の人の人生を考える、などという愚を犯さないことです。こんなたとえ話を診察室ではします。
「たとえば目の前に足の悪い友だちがいるとするでしょ。その友だちに向かって『なんで走らないのっ』とは言わないでしょ。だって走れないの、知ってるもんね。その代わり、杖を持ってくるとか肩をかすとかするでしょ。必要な配慮をしますよね。なのに記憶しづらい人に対して『なんで忘れるのっ』って言ってない? それって足が不自由な友だちに無理やり『走れっ』て言い続けているようなもんだよ。記憶のしづらさは外から見てもなかなかわからないし、世間ではもの忘れと言われているからね。でも『この人は忘れやすい人だ』と思って付き合うと、人間関係壊れるよ」
私は、認知症の本当の姿を見ることは、認知症の本人、周りの人たちが前向きに生きる上で大切なことだと思っています。長寿社会を迎え、いまは誰もが認知症になり得る時代です。いまは自分の近しい人の心配をしているあなたも、近い将来認知症になるかもしれません。そうなったときに、ご自身の人生を絶望の淵に追いやらず、あきらめずに自分の人生の主体者として生き抜いていただくためのヒントを書きました。認知症になってもあなたの人生は続くのです。
※登場する人物はすべて名前と年齢を変え、場合によっては性別も変えてしまって痕跡が残らないようにしています。どうかその点はご了承ください。(本書より)
著者プロフィール
木之下徹さん:東京大学医学部保健学科卒業、同大学院修士課程修了(疫学教室)。2001年に医療法人社団こだま会こだまクリニックを開院。日本初の認知症専門の訪問治療を始める。2014年に三鷹市位のぞみメモリークリニック開院。認知症が気になる人の外来診療を開始した。所属学会は日本認知症学会、日本老年精神医学会、日本認知症ケア学会など。
『認知症の人が「さっきも言ったでしょ」と言われて怒る理由 5000人を診てわかったほんとうの話』
著者:木之下 徹 講談社 968円
認知症になる=絶望ではない。そう言い切る認知症医の著者が、認知症の人やその家族とのやりとりを元に、認知症になっても人間らしく生きるための方法を考えた本書。身近な家族のため、人生100年時代を生きる未来の自分のため、ぜひ手元に置いておきたい一冊です。
構成/金澤英恵
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