母親の献身力なしに、子供は育たない
「ねぇパパ、週末、3人で映画観に行かない?みーくん、“鬼滅”を観たいってずっと言ってて」
仕事後に一人遅めの夕飯をとる夫に、美穂は笑顔を作り話しかける。
最近、湊人はすっかり『鬼滅の刃』に夢中だ。暇さえあればアニメを観ているため、美穂まで“水の呼吸”だの“風の呼吸”だの覚えてしまった。
「最近あなたもずっと仕事続きだし、今週はみんなでゆっくり外でランチでもして……」
「あのさ」
夫を労るつもりで話を切り出したが、強く言葉を遮られた瞬間、タイミングを誤ったと分かった。
「遊びのこと考える前に、湊人の塾のクラスはどうなった?ちゃんとトップに上がれるのかよ」
「それは……」
まだ二年生なのにと思うが、湊人はすでに中学受験に向けて塾に通っている。
しかし世間ではこれが“当たり前”だそうで、夫が強く希望していたサピックスの入塾は小学校入学早々に定員いっぱいで締め切られ、叶わなかった。「お前がのんびりしてたせいだ」と散々怒鳴られたことは少しばかりトラウマとなっている。
結局、義母の口利きでそれなりに有名な個人塾に通っているが、湊人が割り当てられたのは上から2番目のクラスで、義母曰く「トップでないと意味がない」そうだ。
「何がゆっくりだよ。お前は今日も友だちと遊んでたんだろうけど、俺も湊人も他に優先することがあるんだよ」
「ごめん……」
「いくら湊人が優秀で俺が金を出しても、母親の献身力が欠けてたらどこも落ちるし、立派に育たないからな。しっかりしてくれよ。本当に気楽でいいよな。羨ましいよ、マジで」
美穂はそれ以上何も言えず、キッチンの片付けに専念した。
◆
合わせ鏡で、恐る恐る自分の後頭部を覗く。
髪の毛を持ち上げると、そこには不気味な青白い皮膚が痛々しく広がっていた。日々範囲が大きくなっているような気がする。
少し前から、たしかに家の中でやたらと自分の長い髪の毛が落ちていると思っていた。けれど、まさか円形脱毛症だなんて。
そして今朝、慎重にブラシで梳いたときにごっそりまとめて抜けた髪。このまま脱毛症が進んだら……と思うと、いてもたってもいられず、美穂はスマホで原因と治療法を検索し続けている。
「ママぁ、お風呂入ろうー」
しつこく鏡を眺めていると、眠そうな顔をした湊人が洗面所にやってきた。
「あ……みーくん、宿題終わった?」
コクリと頷くつぶらな瞳を見ると、気持ちが和む。
小学二年生になり身体はだいぶ大きくなったが、男の子はまだまだ甘えん坊だ。まだお風呂も一緒に入るし、同じベッドで眠りたがる夜もある。
「うん、終わったよ」
男の子はまるで小さな恋人のようだとも言うが、本当にその通りだと思う。美穂にとって、息子と過ごす以上に幸せな時間は絶対にないと断言できる。
一方で、こんな風に甘えてくれる時間がそう長くは続かないことも分かっている。だからこそ、いつでも子どもに向き合える専業主婦の自分は恵まれているのだ。
−−子どもの成長を見守れるのは、女の最大の幸せだろ。
貴之も義母もよくそう言っている。美穂だって異論はない。不満もストレスもあるわけがない。自分は幸せな女なのだ。
湊人の頬をそっと撫でながら、美穂は気持ちを切り替えて自分にしっかりそう言い聞かせた。
−−美穂は本当に、自分を“お気楽なダラけ妻”なんて思ってるの?
早希の言葉がしつこく耳に蘇るのを、必死に振り払いながら。
美穂の苦悩を知った早希は、このまま放ってはおけないと、ある行動に出る。
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