自分に向き合うほど、鮮明になる“痛み”
その後数日間は、やけに穏やかな日々が続いた。
夫は美穂をいたわり続け、在宅勤務中にいらだつ様子もほとんど見せなかった。相変わらず仕事は忙しそうだが、食事中は笑顔を見せて会話をしたし、美穂に感情をぶつけるようなこともない。
それどころかマメに家事を手伝い、夜は湊人の面倒をよく見てくれる。すると家の中は笑顔と笑い声が溢れた。
そんな貴之を見ていると、美穂は結婚前の彼を思い出した。彼はいつも完璧だった。紳士で頼りがいがあり、いつも先回りをして美穂を喜ばせてくれる。貴之ほどの男性は他にいなかった。
まるで、しばらく悪い夢でも見ていたような感覚だ。
常に貴之の顔色を伺っていたことも、スマホを湯船に投げ込まれたことも、すべて嘘みたいに思える。
それでも、胃の奥がキリキリと痛むような感覚はなぜだか消えなかった。
ーー旦那、モラハラでしょ?ーー
先日の絵梨香の言葉が頻繁に頭に浮かぶのだ。
ーー自覚ないの?ねぇ美穂、自分に正直になったら?自分を偽って、本当に幸せ?ーー
わからない。自分は不正直なのだろうか。何かを偽って生きている?
レゴの模型を夢中で組み立てている息子と夫をカウンターキッチン越しに眺めながら、美穂は恐る恐る過去の記憶を探ってみる。
湊人がまだ赤ちゃんの頃。貴之は息子を宝物のように大事にする一方で、夜泣きがひどい時などは「いい加減に静かにさせろ」「お前の母性が足りない」とよく怒鳴っていた。
そんな夜、美穂は泣き叫ぶ小さな息子を抱っこ紐の中に入れ、家の外に出て湊人が寝つくまで真っ暗な夜の街をあてもなく徘徊した。
あの時の心細さ、世界から見放されたような虚無感を思い出すと胸が痛む。
睡眠を妨げられいらだちが制御できないとき、貴之は枕元のデジタル時計を壁に投げつけたこともあった。そういえば、あのときの傷はまだ寝室に残っている。
イヤイヤ期や小学校入学前も、思い返せば同じようなことは何度か繰り返されていた。
ーーみーくんのためにも現実をよく見て考えてーー
けれど美穂はいつも、痛みに気づかないフリをした。それ以外の選択肢なんて考えもしなかった。
下手な行動をすれば家族が壊れてしまう。今までコツコツと積み上げてきた“幸せ”が崩れてしまう。それが何より恐かったのだ。
「パパぁ!できた!」
「すごいなぁ、湊人は本当に賢いな。なぁママ?」
レゴを抱えた息子と夫が笑顔で振り返る。美穂が何より大事にしていた“幸せ”の姿。
でも、おかしい。やっぱり、おかしい。
自分の心に深く向き合うほど、痛みと違和感は鮮明になっていく。
「ほんとだ、2人ともすごいよ」
不意に溢れそうになる涙を、奥歯を噛み締めて堪えた。
そして穏やかに返事をしながら、美穂はキッチンの中で小さな決意をした。
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