「早希ちゃん!ごめんね、突然。さっきメッセージもしたんだけど……実は美穂が家を出てしまって。早希ちゃんにも心配かけてるよね。本当に申し訳ない」
迷いつつも応答ボタンを押すと、美穂の夫はひどく早口でまくし立てた。
早希は「……はい」とだけ応えておし黙る。電話の相手は美穂を侮辱し深く傷つけた男だ。焦りを隠した声にも紳士ぶった語り口にも虫唾が走り、声を聞くのも嫌だった。
しかし無言の早希をよそに男は続ける。
「美穂が電話に出ないんだ。連絡が取れないから困ってて……。洗足池の、美穂の実家にも行ってみたけど、恥ずかしい話が追い返されちゃってさ」
そこまでいうと、男はハハッと自虐的に笑った。その笑い声がまた早希を苛立たせる。
彼が真に恥じるべきは、美穂が出て行ったことでも追い返されたことでもない。妻を
そう言ってやりたい気持ちをどうにか抑え、唇を噛んで耐える。するとモラハラ夫は急に猫なで声を出してきた。
「僕としては美穂に戻ってきて欲しい。申し訳ないんだけど……早希ちゃん、僕の気持ちを代わりに届けてくれないかな。美穂も早希ちゃんの言うことなら素直に聞くだろうから。頼むよ」
「えっ……それはちょっと……」
一体、何を言い出すのか。美穂はようやくDV夫の呪縛から逃れ、離婚に向けた新しい一歩を踏み出している。その決意を揺るがすような真似をしないでもらいたい。
当然、すぐさま断ろうとした。しかし美穂の夫はこちらの意見などまるで聞く気がない様子で一方的に話を進める。
「早希ちゃん明日は在宅?外にいるなら僕が近くまで行くよ。1時間……いや、30分で構わない。美穂に渡して欲しいものがあるから少し会えないかな」
「いや、明日は撮影があるので……」
早希はまず遠回しに、そのあとハッキリ「無理だ」と伝えた。しかし男は「頼むよ」「時間は取らせない」「モノを渡すだけだから」と一向に引き下がろうとしない。
出版社で17年以上のキャリアをもつ早希は、身勝手なクライアントにも変わり者にも頑固者にもたくさん出会ってきた。
しかしこんなにも対話ができない相手は初めてだ。
しばらく押し問答を続けたものの、スピーカーから響く大声に耳も頭も疲弊してくる。
結局、何を言っても無駄だと諦め「少しなら」と口にしてしまった。
狂気の沙汰……DV男の身勝手な暴走
「本当にごめん。早希にまで連絡したなんて信じられない……」
翌朝、早希が「清水さんから連絡がきた」と伝えると、美穂は怯えているのか怒りか、電話の向こうで震える声を出した。
昨夜、美穂の夫――清水との通話を終えた時には、とっくに日付が変わっていた。
美穂はもう寝ているだろうと思ったし、早希自身も攻防戦に疲れ切ってしまい、朝、スタジオへ向かう道中でやりとりのすべてを報告した。
「それは全然いいの。ただ清水さんがすごい必死で。どうしても会ってほしいって。今日スタジオの近くまで来るって言うから断りきれなくて……ごめんね、勝手に」
美穂は「ううん」と呟いてからしばし沈黙し、遠慮がちに「実は」と口を開いた。
「私も昨日知ったんだけど……夫、湊人の学校にまで行ったみたい」
「え?みーくんの学校に……?」
狂気の沙汰に早希まで身震いがした。従順だったはずの妻が出て行き息子もいなくなって、孤独で暴走しているとしか思えない。
「早希にも面倒かけてこちらこそ本当にごめん。夫には、とにかく弁護士を通してと伝えて。それ以上は何も話さなくて大丈夫だから。ごめんね、本当に……」
「わかった、そうする。大丈夫だから心配しないで」
恐縮して何度も謝る美穂に頷いてみせると、早希はため息とともに通話を切った。
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