「この人、怖い……」カフェでの修羅場
昼休みに約束のカフェへ向かうと、清水はテラス席で早希を待ち構えていた。
「早希ちゃん、久しぶり。まったく変わらないね」
わざとらしく社交辞令を言う男の顔は、早希の記憶より随分とオジサンになっていた。もう10年以上も会っていないし当然ではある。しかし加齢の問題だけではなさそうに思えた。
外資系コンサル勤めのエリートらしく高級そうなコートを纏っているものの、肌も唇も血の気がない。そして神経質そうに何度も髪や顔を触った。
ただただ気まずい、意味のない沈黙が続く。
早希に世間話をする気がないとわかると、清水はバツが悪そうに咳払いをし、それから慌てた様子でオレンジ色のショッパーを取り出した。
「これを美穂に渡して、心から反省していると伝えて欲しい。戻ってきて欲しい、と」
「……」
そう言って手渡されたのはエルメスの紙袋だった。さらに清水は周囲もはばからず、なぜか早希に深々と頭を下げている。
余計なことを言うつもりなどなかった。美穂に指示されたとおり、自分の役目だけを果たして帰るつもりだった。
しかしこんな風にわざとらしい謝罪をしたり高級バッグのプレゼントを買ってきたり……清水の行動すべてが早希には理解不能で、どうしても尋ねずにいられなかった。
「……こんなことするくらいなら、戻ってきて欲しいなら、どうして美穂に酷いことを言ったんですか?殴ったりしたんですか?」
早希の出した低い声に、清水がハッと顔を上げる。
「それは……夫婦喧嘩がヒートアップしたっていうかさ。色々あるんだよ夫婦には。もちろん悪かったと思ってるからこうして謝ってるし、欲しがってたバッグも買ってあげて……」
「バッグなんかで済む問題!?」
堪えきれず、言葉を遮って叫んでいた。
「清水さんには申し訳ないけど、私にはまったく理解できません。謝罪の気持ちも伝わらない。コレも美穂には渡せない……渡したくありません」
言うだけ言ってしまうと、早希はコーヒーを残したまま席を立った。再び口を開いたが最後、怒りに任せて罵倒してしまいそうだったからだ。
「おい、ちょっと」
――!?
しかし立ち去ろうとした瞬間、凄みのある声で引き止められた。さらには腕を思い切り掴まれ動けなくなってしまった。普通の力ではない、暴力的な握力だ。
突如キレた男の、怒りの表情……戦慄が走り頭が真っ白になった。世界が無音になり、返す言葉も出てこない。
――どうしよう……この人、怖い……。
「進藤さん?」
その時、思いがけず早希を呼ぶ声が小さく聞こえた。救いを求めて顔をあげる。するとそこに、カメラマンの北山隼人が目を丸くして立っていた。
「どうかしました?」
早希の腕を掴む男に隼人が怪訝な目を向ける。その視線を受けて、清水はようやく手を離してくれた。
「……大丈夫。もう昼休憩も終わりだよね、行こう」
無理やり隼人に笑顔を向けると、早希はそそくさと逃げるように小走りでカフェを出た。
「コーヒーを買おうと思ったら……びっくりしましたよ。誰なんですか、あの人?」
通りを並んで歩きながら、隼人が眉を寄せて尋ねる。
「友達の夫。……その、ちょっとトラブルがあって……あっ、不倫とかそういうんじゃないから……」
気まずさを笑いに変えて答える。しかし声の震えが自分でもわかった。声だけじゃない、実は足も震えている。笑顔を作ってみても頬が固まって動かなかった。
そんな早希の様子に気づいたのだろう。隼人が急に足を止めた。そして、さっき清水が乱暴に掴んだ早希の腕をそっと引き寄せた。
「進藤さん。事情はよくわからないけど……あまり揉め事に首を突っ込まないで。心配だから」
その瞬間……早希の中で張り詰めていた糸がプツンと切れた気がした。恐怖と緊張で凍りついていた身体が、心が、溶けていく。
もうずっと長い間、誰にも頼らず、頼れずに生きてきた。何が起きようと自分で解決するしかないから、強く逞しくなったつもりだった。こんなことくらいで動じないと思っていた。けれど……。
――心配だから――
自分を気遣ってくれる男の優しい眼差しを受け止めたとき……こみ上げてくる安堵が、じわりと涙になって溢れた。
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