1月11日、米Twitter社はトランプ氏の個人アカウントの永久停止を発表。トランプ支持者らが抗議デモを起こすとの情報から、サンフランシスコのTwitter本社前では厳戒態勢が敷かれたものの、実際はトランプ支持者は一人も現れなかった。写真に写っているのはトランプ氏の弾劾を求める反対派の男性。写真:AP/アフロ

これについては意外であるとの感想を持った人が多いと思いますが、欧州の自由に対する考え方が分かれば、それは意外でも何でもありません。メルケル氏らの批判は、トランプ氏の発言を認めるべきだという意味ではなく、一企業が問題投稿に対する措置を決定していることに対して向けられています。

 

つまり欧州の感覚からすれば、襲撃を煽る発言が許容されないのはもちろんのこと、そのアカウントの扱いについて民間企業が判断するのもケシカランということです(つまり社会全体あるいは国家が責任を持って判断すべきであるとの解釈です)。

日本の法体系は明治以降あるいは戦後に急場しのぎで作られましたから、英米法と大陸法が混在しており、法の根底にある基本的な理念というものが明確になっていません。このため言論の自由についても、論点が定まらない状況が続いています。

簡単すぎる表現かもしれませんが、「言うのも自由、それにどう対応するのかも自由」という米国式がよいのか、社会全体として「言って良いことと悪いこと」をしっかり峻別する欧州式がよいのか、私たち自身で問い直してみる必要がありそうです。

米国式の場合、発言をするのは自由ですが、それがもたらす結果はすべて自力で引き受けなければいけません。一方、欧州式の場合、社会のルールを超えれば一定のペナルティが加えられますが、その範囲にしたがって発言している限り、社会的な制裁を受ける心配はありません。

近年、ネット上の誹謗中傷が社会的な問題となっていますが、米国式であれば、誹謗中傷するのも自由ですが、被害者が資金力にモノを言わせて次々と訴訟を通じて反撃することで、加害者を経済的・社会的に厳しい状況に追い込むのも自由です。欧州式の場合、被害者だからといってむやみに訴訟できませんが、誹謗中傷の投稿はそもそも制限されます。これはひとつのたとえ話ですが、みなさんはどちらの社会が過ごしやすいと感じるでしょうか。


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