「他人の悪口を言ってはいけない」子どもの頃から耳にタコができるほど聞かされてきた言葉だと思いますが、実践できている人はどれくらいいるでしょう? ちなみに筆者はいまだにできていません。中でもタチが悪いのが、友人とのコミュニケーション手段として使う「悪口」。悪口の対象者を本当に嫌いなわけではないので罪悪感にさいなまれてしまうのですが、かといって止める術もわからないというがんじがらめです。

そんな迷える子羊な筆者に啓示を与えてくれたのが、mi-molletのコラム「推しが好きだと叫びたい」でおなじみのライター・横川良明さんの著書『人類にとって「推し」とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた』でした。同書の中で横川さんは、他人を悪く言う負のループから脱却し、誰に対しても優しい気持ちを持てるようになった経緯を書かれています。しかも、30代になって始めたオタク活動がきっかけだったというから驚き。気になるその中身をさっそく覗いてみましょう。

 

 

「推し」のおかげで誰かを悪く言うしんどさから解放


推しができたことによる変化はいろいろありますが、その中でも特によかったと思えることのひとつが、人に優しくなれたことです。

 

世代論的なことでパーソナリティーを決めるのは気が引けますが、1983年生まれの僕にとって「毒舌」はひとつのステータスでした。お笑い番組でも、いかに毒を吐けるかがポジション争いの決定打。うまく毒を吐ける人ほどおもしろい認定され、着々と出世の階段をのぼっていった時代が確かにありました。

それは、僕たちの日常の場面でもそうで。人を悪く言うことが「ディスる」なんて言葉でカジュアル化されたのが良い例。飲み会でうまく立ち回るために、適度に毒を振りまいて笑いをとるという方法を、僕自身、ひとつの処世術としてごく自然にこなしていました。

でもそうやって人を悪く言うたびに、心の奥底に罪悪感が沈殿し、飲み会の帰りはいつもひとり反省会。誰かを悪く言うことのしんどさから解放されたいのに抜け出せないジレンマに長らくモヤモヤしていました。

そんな毒舌芸からすっぱり足を洗えたのは、自分に推しができたから。推しが誰かに悪く言われているのを見るとやっぱり嫌だし腹が立つ。同じように、今、自分がディスって笑いのネタにしようとしているこの人も、誰かの推しかもしれない。そう思ったら、軽率なことは言えないとわかるようになった。