長引くコロナ禍で、さまざまなしわ寄せが女性側に来ていると実感されている方も多いのではないでしょうか。子どもの学校の休校や家族のテレワーク化、外食の制限などで母親の家事や育児の負担は増加。自分の仕事をこなしながらも、家庭の維持を図る“無償の長時間労働”を強いられる日本の母親という存在について『「母と息子」の日本論』の著者で、社会学者の品田知美さんが分析。こちらは「群像」2021年4月号に掲載されたものですが(同号は完売)、多くの方にお読みいただけたらと全文掲載いたします。

 


母親とはどういう存在なのか
〜返礼なきケアの贈り手たち〜


私は家事や育児などの「支払われない労働」を主な研究対象としてきた社会学者である。こういった無償労働を数値化して捉える手法としては、生活時間調査が一般的である。データを掘り起こして分析し、たどりついた結論に基づくと、どうやら戦後の技術革新や商品経済の進展によっても家事・育児・介護がさして減らず、主婦は暇にならなかったらしい*1

 

直近の総務省統計局の社会生活基本調査報告によれば*2、2016年に核家族で6歳未満の子のいる母親の家事関連時間は、1日あたりの平均で7時間34分で、1996年から4分の減少をした。内訳をみると育児時間は1時間2分増加して3時間45分になり、介護・看護も3分から6分へと増加している。一方、父親の家事関連時間は38分から1時間23分へと増加し、介護は変わりなく1分のままで、育児が31分増加して49分となった。

父親の家事・育児時間は確かに増加しているのだが、その分母親が減らせているかというと、そうでもないという現実がある。いまもケアの大半を担っているのは母親たちなのだ。

しかし、ケアとは可視化するのがとても難しい行為である。時間調査で把握できるケアは必ず過小になる。

例えば、自分が食事をしながら子に食べさせるとき、行為は定義上「自分の食事時間」となる。末子未就学の核家族の母親は1日平均で79分家族と食事している*3。幼い子との食事をしたことがあれば想像がつくように、「子どもが遊びながら食べる」などと悩みの定番にあがる格闘場面である。だが育児時間には計上されていない。

 

母親がなにをしているのか、どういう存在なのかという現実をとらえるのはとても難しい。

私は数値を事実やエビデンスを与える特権的な素材とはみなさない。言葉や映像や生起した象徴的事例など、様々な形状で表象されたもの全てが社会的現実をつくると考えている。したがってこの小論では、様々な現実の断片を素材として用いながら、みえにくい日本の母親という存在のありかたを再構成してみたい。