透けて見える「世間はこういうのが好きなんでしょ」という発注意図
でも「なぜこうなったのか?」を考えた時、同業者の私になんとなく想像がつくのは、この記事が「発注通り」なんだろうなってこと。あ、ちとまって今、この企画の担当者をイタコ的な感じで想像するとですよーー
「大阪市発注の『新今宮ワンダーランド』っていうPR企画なんですけど、要は西成区のイメージアップで。いろいろ問題はある町なんですけど見方次第だと思うんですよ。なんで“センベロ”“角打ち”とかが好きな20~30代の女性が「行ってみようかな」と思うような感じで、ネガティブワードは使わないで“下町情緒溢れる、あったかい心のふれあい”みたいな話を『エモい』感じで。最終的に、PR全体のコピー<行けば、だいたいなんとかなる町。>ってところに落としてもらえれば」
とまあ、こんな感じで「エモい」世界観の記事を発注したんであろうこと。それはエモい媒体として知られ、エモさを好む読者を多く持つnoteで展開していることからも明らかです。
私が「エモい」と口にする人の何が嫌いって、何か言ってるようで何も言ってない、何か感じているようで何も感じてないところです。「何か」に触れた人が、悲しいとか、辛いとか、嬉しいとか、泣いたとか、頭にくるとか言う時、主語は必ず一人称ですが、「エモい」はその「何か」そのものに対する、第三者的な評価でしかありません。軽薄な広告マンがこういう言葉を好むのは、彼らが「世間はこういうのが好きなんでしょ」てな具合に、よくも悪くも世間を覚めた目で見て、ナメているからです。
言葉は人が思うよりずっと心理に作用するもので、人が何かに対して「エモい」という時、それは完全な他人事です。さらに「エモい」は文章に雰囲気をまとわせる技術なので、その「ふわああ~」に陶酔するだけで気持ちよくなれる。人によっては書かれている内容を深く理解するまでに至ることができません。プレゼントもらって「ラッピングがふんわりキラキラ」「リボンの色が可愛い」「ベルベッティな箱の手触り最高」ってことは覚えてるけど、ところで何が入ってたっけ?みたいな。
もちろん文学においては、それはそれで楽しみのひとつ。でも昨今の世の中では、むしろひどい話だったりするものが、「エモさ」にまぶされて「いい話」みたいな説得力と支持を得てしまうーーつまり「物事の本質を歪める方向」で機能してしまっている(もしくはそれを狙っている)事例が多いように思います。「松のやで定食を。」はまさにそうした例ですが、同じnote(cakes)の人生相談もそうだし、東京五輪の池江璃花子選手推しや、聖火リレーの「津久井やまゆり園」での採火という発想に至っては、はっきりいってキモすぎる。というわけでみなさん、「エモい話」にはくれぐれもご注意を。
前回記事「渡辺直美さん侮蔑演出騒動で考えた、「外見イジリ」と「イケメン」について」はこちら>>
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