そもそもブスってどういうもの? ブスは不利なのか?
 

あくまで時代が違うから、という前提で聞いていただきたいのですが、原節子や吉永小百合のようなオーソドックスな顔立ちの女優さんを見て育った私の母の世代からすると、昨今の女優さんの容姿には「あらっ、変わった顔ね!」と驚くことも少なくないようです。

顔には、各パーツの間隔比率がどうだとか、顔の横幅が目の横幅の何倍だとかいった黄金比というものがあり、この比率に近いほど美人とされてきました。

ところが昨今は、黄金比から大きくかけ離れた顔立ちでも、それゆえキュートであったり、何より個性があってオシャレ。多くの女性がその顔に似せようとものまねメイクを施したりしています。かく言う私の母も、黄金比から外れた女優さんを見て「あらっ!」と思うことはあっても、「それをコンプレックスに感じているわけでもなく、堂々としていて魅力的に見える」と、“武器になる容姿”として受け止めています。

こんな言い方をしては何ですが、このように、かつてならブスと言われたかもしれない顔立ちも今では美人の部類に入っている、というわけです。

 


美しさは個性を持っているかどうかへ


世界はもっと先を行っていて、ダイバーシティ先進国のアメリカなぞは、顔立ちはもちろん、どんな肌色でもどんな体型でも何歳でも、「ありのままの私が一番美しい」という自己肯定発言をする有名人が増えています。そして社会も、それに賛同している。

お隣韓国はもっと興味深くて、ここ数年、美人の概念が180度変わってきています。
というのも韓国は、国民の多くが二重手術をすると言われるほど、美の基準は画一的で二重人気が高かったのですが、『トッケビ~君がくれた愛しい日々~』で一重女優のキム・ゴウンが登場した2010年代半ば頃から、激変。

「ありのままの自分」を肯定する女優たちが一気に台頭してきました。
日本でも大ヒットしたNetflixドラマ『梨泰院クラス』でも、これまでとは全くタイプの違う一重顔の女優、キム・ダミがヒロインに。しかも彼女が男性のナンパを無視したシーンでは、「おい、美人だからって調子に乗るなよ!」というセリフまで登場させている。まさに、これが今の韓国の美人顔ですよ、と念押ししているようなもの。韓国も日本同様、かつてなら「ブス」と言われたかもしれない顔立ちが、押しも押されぬ美人となっている印象です。

こういった流れを見ていると、つまり容姿には美人も不美人もない、ただ個性があるだけだ、というのが、今の世の共通認識になってきていると思うのです。そんな時代に『ドラゴン桜』は、「ブス」を東大に行くべき基準としてしまった。それによって、せっかくのこの作品が持つ哲学性のようなものまでもが一緒にボヤけてしまった、と私は感じたのです。

もともとこの作品が伝えたかったのは、何のために東大に行くのか、引いては何のために学問をするのか、という壮大なメッセージだと思うのです。それゆえ今回のドラマでも桜木は、「物事の本質を見ろ」と口を酸っぱくして言っています。本質を見ない「バカ」は、いいように利用され社会の馬車馬となってしまう。だから、“本質を見る人間”を求めている東大へ行け、というわけです。これはたしかに、見ていて「なるほど、一理ある」と頷かされるものがありました。


バカとブスは並列されるものではなかった!


……だけど、「バカ」に加えてもう一つ、「ブス」という曖昧な存在を出してしまった。そのため急に、桜木が言いたいことの軸がブレてしまった気がするのです。あれ? 本質を見ることが大事ならブスは関係なくない? それなら容姿に関係なく、みんな東大を目指すべきじゃない? と。

だから私は、ふとこう思ったりもしました。もし今回、桜木のこの決めゼリフが「これからは本質を見ることができる人間が勝つ時代だ。だからバカもブスも美人もイケメンもみんな東大に行け!」となっていたら、おお、センスいいなあ!!と思ったのになあ……と。

ただ、収穫もありました。今回の違和感から、現代における「ブス」のニュアンスをしっかり考えてみたことで、気がつけば「ブス」という言葉の持つ狂暴度はかつてとは比べものにならないほど失われているかも、と感じられましたから。

オリンピックにおける渡辺直美さんの容姿イジり問題があったように、日本はルッキズム是正においてはまだまだ後進国だと言われています。でもこうして見回してみると、遅いなりに外見の多様性は浸透してきているのかな、と思いました。そうしていつか「ブス」という言葉が死語になる、そんな日が来たらいいなとほんのり思ったのでした。
 

文/山本奈緒子
構成/藤本容子
 


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