諸外国と比較して、日本は人口あたりの交通事故死者数こそ少ない部類に入るのですが、歩行者の死者数が突出して多いという現実があります。つまり日本における交通事故というのは、クルマを運転している人が自らの事故で死亡するのではなく、歩行者がクルマに轢かれて死亡することを意味しているのです。

内閣府発表の平成30年交通安全白書 別添参考 「参考-2 欧米諸国の交通事故発生状況」より、「主な欧米諸国の状態別交通事故死者数の構成率(2016年)」


近年、歩行者が巻き込まれる事故が発生するたびに、道交法の厳罰化を強く求める声が上がります。運転手の不注意や怠慢で歩行者が犠牲になることはあってはならないことですから、厳罰化も必要でしょうし、一定の効果も期待できるかもしれません。しかし、厳罰化によって運転手にプレッシャーをかけただけでは、本当の意味での安全な社会は実現できません。

 

仮に加害者が存在していたとしても、最悪の事態に至らないよう、安全な道路を整備することこそが、最良の対策であることは言うまでもないでしょう。そして、安全な道路を作るという作業は、相応のコストさえかければ実現できることなのです。

近年、日本社会が貧しくなっていることを実感するケースが多くなっており、昔は豊かだったという話もよく耳にするようになりました。しかし、厳しいことを言わせてもらうと、昭和の時代に日本が豊かに見えたのは、先進諸外国と比較して、社会全体として安全に対するコストを犠牲にしていた部分も大きいのです。

仕組みとしての安全性を犠牲にした分、国民のモラルや善意に頼る形で何とか社会を維持してきたわけですが、こうしたやり方は持続性があるものとは言えません。

一部の人は、安全ばかり優先しているとコストだけがかかり、経済にとってマイナスだと主張していますが、そうではありません。安全対策に投じられる資材や人材もすべて国民の所得となりますし、予算が増えれば関連テクノロジーの開発も活発になります。 

国民が安心して生活できるようになれば、最終的には生活水準の向上を通じて、国内消費にもプラスの影響を与えるでしょう。むしろ、成熟国家というのは、こうしたところにお金を投じることを成長のエンジンにすべきであり、これは国民全員にとっての利益となります。悲惨な事故を二度と起こさぬよう、政府による本腰を入れた対応を期待したいと思います。
 


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