「妻は汝の夫にしたがいなさい」を誓わなかった母
日常では夫に従い、“黒人女性の性”を取り締まろうとする運動にも参加した著者の母親でしたが、過去にはフェミニスト的な主張があったことも本書では記されています。1976年、著者の両親が結婚式のリハーサルを行っていた時のこと。牧師が二人を前に、キリスト教の結婚の誓いの言葉を唱えると、思いもよらない展開が待っていました。
「夫は妻を愛しなさい。夫は汝の妻を愛しなさい、そして妻は汝の夫にしたがいなさい」
「わたしは彼にしたがったりしません!」母が割りこんだ。
「なんだって?」牧師は驚いて父のほうを向いた。
「なんだって?」父も母を見て言った。
「わたしは子供のときは父親にしたがった。それ以外はどんな男にもしたがわない」と母は叫ぶような大声で言い、驚いて目を丸くしている父をにらみつけた。
「あなたはわたしの父親じゃないし、わたしはもう子供じゃない!」
時計の針が時を刻んでいく。三人とも黙ったままだ。
そのとき父は女性に服従を誓わせる聖書の言葉を捨て、性差別と闘う姿勢を示したのだろうか?
それともその場から立ち去り、服従してくれる別の女性を探したのだろうか?
父が選んだのはどちらでもなかった。それは、母との結婚生活を40年以上続けることを可能にした唯一の選択肢だった。父はあんぐりとあけていた口をゆっくりと閉じ、飛びだした目玉を引っこめ、母に公平な解決策を提案した。
「じゃあ、“あなたはわたしと互いに仕えあってくれますか?”はどう?」
母はうなずいた。キリスト教の服従の概念とフェミニズムの公平性を組み合わせた「互いに仕えあう」という言葉の響きが気に入ったのだ。父と母は自分たちで結婚の誓いの言葉を書いた。牧師は予定どおりに式を挙げてくれた。
本書の中で著者は、「“レイシスト”と“アンチレイシスト”は着けたりはずしたりできるいわば名札のようなもので、ある人がその瞬間になにをしているか、なにを支持し、なにを表現しているかに応じて自由に入れ替えられる。それはタトゥーとは違いいつまでも消えないものではない」と語っています。
その瞬間ごとにどちらにもなれる可能性があるからこそ、自分はどうありたいか、どちらの意識を根差すことに心を砕くべきなのか、常に自分に批判的な目を向け、客観視する必要があると著者は説きます。
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