小説現代長編新人賞を受賞しデビュー、“依存”を描いた最新刊『燃える息』も注目を集めるフランス在住の作家・パリュスあや子さん。ミモレ書き下ろし連載小説の第2弾がスタート! パリに移り住み、フランス人の彼と事実婚を選んだ
パリ北東部の十九区に暮らす
「ベルヴィル・トーフ」(1)
「悪いけどしばらく泊めて」
マルゴが登山用の巨大なザックを背負い、猫を連れてやって来たのは水曜の朝だった。
「あらお姉さま、パスカルとまた喧嘩ですか?」
この突然で強引な訪問に、まだ寝巻きのジャージ姿で寝ぐせを爆発させていたカンタンは、馬鹿丁寧な口調で苦笑した。私はかろうじて着替えてはいたものの、ノーメーク。
フランスは五月に入り、ようやく三度目のロックダウンが終わった。とはいえ変異株の出現に相変わらず右往左往しているコロナ禍の今、なんの連絡もなしに人の家に押しかけるってどうなの?
社交辞令のほほ笑みは浮かべてはいたものの、デリカシーのなさに内心ムッとせずにはいられない。
「喧嘩じゃない、別れたの」
でも最高に機嫌の悪い声で吐き捨てられ、思わず身構えた。
――面倒なことになりそう……
「それよりコネコのトイレ作っていい?」
話はこれまでとでも言いたげに、マルゴはカンタンと私を押しのけるようにしてバスルームに踏み込み、勝手に猫ケージを設置し始めた。
日本語の「仔猫」の響きがかわいいと気に入り「コネコ」と命名されたグレーの雑種猫は、今やすっかり巨大化してふてぶてしい。
「この辺、前より治安が悪くなってない? ヴェリブ(パリ市レンタル自転車)とか破壊されてるし、通りなんてオシッコだらけだし……」
作業しながらも、マルゴは不機嫌を垂れ流すようにぶつぶつ文句を言う。
私たちが住むパリ北東部の十九区は移民が多く、特にこのあたりはHLMと呼ばれる低家賃集合住宅も多い。我が家は古いアパルトマンだけれど小綺麗で、相場から考えれば格安。「住めば都」で慣れてしまったけれど、パリ南部の落ち着いたカルチエに住むマルゴからすれば、混沌とした危ない雰囲気を感じるのだろう。
「アジア人狩りとか物騒な話も聞くけど、
「今のところ、大丈夫かな……」
つい先日、マルシェですれ違いざまに唐突な罵倒を浴びせられたことを思い出して歯切れの悪い答えになってしまった。でもあれは「嫌な思い」であって「危ない目」とはいえない。
マルゴは直情的で正義感が強く、味方に付ければ頼もしいタイプ。カンタン一家のなかでも中心的存在だ。一家はとても仲が良く、むしろ「仲良すぎ」。
私は視線で「どうすんだ」とカンタンに訴えたけれど、「まぁまぁ」とキリンのような平和で眠たげな瞳でいなされた。
カンタンが嫌な顔をしないのも、私が断れないのも知っていて押しかけてきたマルゴが憎たらしく、思わず小さく舌打ちしてしまった。
昨年三月に最初のロックダウンが始まってから、私もカンタンも徐々に在宅勤務に切り替えていった。狭い寝室とリビングに分かれて個人空間を確保し、それぞれ仕事をこなしている。一年以上経ち、この生活スタイルにも慣れたけれど、毎日のように朝から晩まで同じ屋根の下で過ごしていたら、疲れることだってあるのが普通だろう。
――ここに喜怒哀楽が激しくて、すぐ感情的になる瞬間湯沸かし器かつ急速冷凍庫のようなマルゴが加わるなんて……
ザックから持参した猫用品も出して並べ、既に我が家のようにくつろいでいるマルゴの横顔を観察しながら「しばらく」ってどれくらい居座るつもりなのか、と暗澹たる気持ちになる。
コネコは黄色い目を鋭く光らせ、ボスネコの貫禄で家を徘徊し始めた。
正直、マルゴも猫も苦手だ。
「パスカルと家探しもしてたんじゃないの? そのためにPACS(パックス)だって先月したばかりでしょ」
「PACSなんて糞くらえよ、さっさと破棄してやるから」
マルゴは既に沸騰気味だった。
私は内心ヒヤリとする。私たちもまた「PACS(Pacte Civil de Solidarité)」=民事連帯契約制度を使い、いわゆる「事実婚」をしているカップルなのだ。
フランスでは結婚も離婚も手続きが大変だが、PACSを結ぶのは書類を揃えて市役所で手続きをする、または公証人に依頼するだけで済む。そして解消は一方の申し立てだけでもOK。
カンタンの気持ちひとつで、いつPACSが解消され、滞在許可証の延長ができなくなるかもしれない脆い身分であることに改めて気付かされる。
「あんなこと言ってるけど、いつものことだよ。明日になったらケロッとして帰るさ」
楽天家のカンタンに耳打ちされ、私は渋々頷くしかない。
実際、マルゴとパスカルが食事中に怒鳴りあいの喧嘩をしたり(というかマルゴが一方的に切れる)、冷戦みたいな空気が流れたりすることはしょっちゅうで、でも次に会えばラブラブムード全開というのがお決まりだ。
私は寝室、マルゴがリビング、カンタンは台所にそれぞれパソコンを広げ、各自仕事を始めたものの、私は落ち着かずなかなか集中できなかった。
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