一緒にこられたご主人にも話を聞きました。すると彼女が元気だったころとは別人のように、能面のような顔になり、いつも暗鬱な様子でネガティブなことを口にしているとのことでした。こう話すご主人も、彼女の変化に戸惑いを感じているようでした。刺さるような言葉を投げかけてくることもある鈴木さんとご主人は、言い争うこともあったようです。

診察とこれらの情報をもとに、私は鈴木さんがうつ病になっていると診断しました。確かにがんになった人はしばしばうつ病になります。そしてその治療で改善します。

「もう一切薬は飲みたくない」という鈴木さんの要請とすり合わせ、うつ病の薬1錠と、吐き気止めの薬2種類を1錠ずつ、合計3錠の服用を何とか約束してもらい、処方しました。

この診察から2週間がたって、鈴木さんは前回より少し明るい表情で外来に来られ、「吐き気が治まった」とのことでした。継続する吐き気には適切な薬剤があるので、その制御がうまくいきました。1ヵ月がたつと、さらに元気なご様子でやってこられました。うつうつとした気持ちが少し改善してきたとのことでした。抗がん剤治療も再開ができました。
 

「死への希求」は末期でなくてもありうる

 

それから数年、鈴木さんとは緩和ケア医として伴走させていただきましたが、再びうつに陥ることはありませんでした。もし鈴木さんに適切な専門家による緩和ケアがなされなかったらどうなったでしょうか。まず、抗がん剤治療は間違いなく再開できずにいたでしょう。そして、それは死を早めることになったでしょう。

 

うつの彼女は死を希求する、つまり自死を考える時間が増えていました。うつが消えたあとで彼女は「後から考えるとばかげたことだった」と笑いましたが、最初の外来では自死しかねない様子さえ感じられました。もちろん自死をしないように約束してもらい、診療しました。

日本では認められていない安楽死という手段があったら、彼女は迷わずそれを選ぶ身体と心の状態だったでしょう。それがガラッと変わったのです。これは特別な例を挙げているのではありません。このような事例は、末期ではない段階からの緩和ケア診療ではしばしばあることなのです。

さて、鈴木さんにはどのような苦痛があったでしょうか。まずは吐き気、不眠、食欲不振、体重減少といった「身体のつらさ」、うつ病からくる「精神のつらさ」、夫との関係がゆらいだことによる「社会的なつらさ」、生きている意味がないとまで考えてしまった「スピリチュアルなつらさ」です