温かい手


「眠れないの? うなされてたみたいだけど……大丈夫?」

ハッとして後ろを振り返ると、絵里子が心配そうにキッチンの入口に立っていた。化粧っ気のない顔はつるりとしていて、あどけなくみえる。

「ごめん、起こした? なんかこの前見たホラー映画の、続きみたいな夢を見ちゃった」

僕の苦し紛れの言い訳に、絵里子は「そう」とうなずいて、ハグすると、僕の背中をぽんぽんとたたいた。

それは慈愛に満ちた、温かいしぐさだった。

「この前、蓮人に急にあんなお願いしたから……もしかして負担になってる? なんだか最近元気がないから。もしそうならば、蓮人の正直な気持ち、何でも聞かせて。それが自分の気持ちと同じくらい、大事なことだから」

「や、そんなことないんだ。不妊治療のことは僕も考えた、検査に行くのは賛成だよ」

「本当? 無理してない?」

「してない。でもさ、原因が見つかるかどうかもわからないし、仮にどちらかに問題があったとして、それを取り除けるかもわからないよ? そのとき絵里子、辛くならないか?」

「……まるで私に原因があるってわかっているみたいね、蓮人」

ギクッとして、絵里子の顔を見る。彼女はにやりと笑って「自信家だなあ」と僕の腕をもう一度ポンとたたいてから、「さあ、もう少し寝よう?」とそのまま手をひいた。

暗く、しんしんと冷えたキッチンから、柔らかく温かい寝室に、僕を導く小さな手。

佐奈と別れて絶望していた4年の歳月がようやく断ち切れたのは、職場仲間であった絵里子が好意を伝えてくれたときだった。

 

それからずっと絵里子に救われ続けているのに、果たして僕は彼女にふさわしい夫なのだろうか? 少なくとも夜、夢を見てうなされるほどに心を占めているのは、彼女との未来じゃなくて、過去の過ちの記憶なのだ。

 

ベッドに入ってからも、僕は考え続けた。

これまで僕は、自分が取り立てて見どころのある人間だと思ったことはない。でも、さほど悪人でもないようなつもりだった。

それは都合の悪いことから目を逸らしていただけ。

佐奈との顛末を、愛した人に捨てられたという話にするのは簡単だ。むしろ自分は可哀想な男だと思っていた。だけど、当時目を背けた真実は、大人になるにつれその重さを増していった。

今こそ僕は認めなければならない。善人ぶっていた僕は、妊娠したかもしれないと思いながら、仕事と板挟みになっていた28歳の最愛の女の子を、深く傷つけたのだということを。

愛しているといいながら、彼女が抱いた不安も畏れも、何一つ理解しないまま「どうするの?」とまるで他人事のように尋ねた。

その一言で、積み重ねた信頼も愛も揺らぐほど、彼女を傷つけたのだ。僕は、そんなことができるほどに無知で想像力がなく、そして若かった。

人に傷つけられるよりも、傷つけた記憶のほうが何倍も自身を抉るのだと、僕はその夜に知った。

胸がしびれるほどに、痛かった。