全く集中できなかった講義の後、校舎の階段に座ってソユンとランチを広げる。

9月も後半に入り、すっかり涼しい。風が吹き抜け、日陰にいた私は思わず首をすくめた。隈のひどい顔を隠すためにもパーカーのフードを被る。

愛莉あいり、今日はお昼、それだけ?」

バナナとリンゴを膝にのせた私に、ソユンは怪訝そうに首を傾げた。

「寝坊しちゃって……昨日の講義、家で聞き直してたら、いつのまにかぐっすり」

講義は基本120分、教授がしゃべりたおす。パワポや資料を使うことはまずない。たまにホワイトボードになにやら書き込むけれど、その手書きアルファベットの癖が強すぎて解読不能。毎回授業を録音し、謎の筆跡を撮影し、家で3倍の時間をかけて解きほぐすことになる。早口だったり、ぼそぼそと話す教授の場合、もはや「推理」に近い。

私たち、付き合ってるのかな?_img0
 

私たちは共にパリ第三大学大学院の映画視聴覚研究科で「映画理論」を専攻している。ソユンは韓国の留学生で、一番の仲良し。同期ではほぼ唯一の友達だ。穏やかで面倒見が良く、私が度々フランス語に詰まっても、にこにこ我慢強く話を聞いてくれる。彼女がいなければ、私の院生生活は悲惨なものになっていたに違いない。

同じ科には約200人の学生が在籍しているものの、うち留学生は十数人。それも主に「エラスムス」という留学プログラムを利用して来たEU圏の学生だ。中国の留学生には大学内に形成されている巨大中国コミュニティがあるけれど、そんな基盤のないアジア系の私たちが親しくなったのは自然な経緯でもあった。

 

「ヴァカンスが長かったし、なかなか生活リズムが戻らないよね」
「四ヵ月なんて長すぎだよ。だからって遊びに行く余裕もなかったし……」
「私は近場で、一泊二日のルーアンが精一杯だった。すごくいいところだったけど、本当は海とか行きたかったなぁ」

ソユンはパスタの詰まったタッパーをつつきながら、小さなため息をついた。

私はリンゴに皮ごとかぶりつき、苦笑する。

「夏の南仏とか、夢だよね。私は『ヴァカンス中はガラ空きのパリ』っていうのを体感したよ。図書館はそうでもなかったけど」

長い長い修士課程の夏休み、羽目を外せたら最高に楽しかっただろうけれど、実際は家と図書館の往復だった。しかもだんだん夜型になり、太陽を浴びることもない不健康な生活。

もちろん、ヴァカンスを満喫した院生だってたくさんいるだろう。ひとえに私の力不足のせいなのだ。夏休み中に修士論文の半分程度を目標に書き進めなくてはならず、最低五十ページほど。当然「正しいフランス語」で……

とにかく必死になるしかなかった。

「担当教授にどれだけダメ出しされるか、今から憂鬱だよ」

私が暗い顔でバナナを剥きかけたとき、カバンから覗くスマホの画面が光った。ギヨームからだ! 思わず引っ摑む。

〈クク! 元気? 金曜の夜、映画でも観に行かない?〉

――夜、ということは、その後……?

右手にスマホ、左手にバナナを持って固まる。「平気?」と心配そうなソユンの声で、我に返った。

「ごめん、なんでもない」

私はすぐさまスマホをカバンに突っ込むと、口いっぱいにバナナを頬張ってほほ笑んで見せた。

勉強のこと、留学生活のこと。ソユンは優しくて頼りになるから、ついなんでも相談してしまうけれど、恋愛のことだけは話しにくかった。こんな落ちこぼれなのに「なに浮かれてるの」って呆れられそうで。

勘付かれないように慌てて話題を変えたものの、頭の片隅ではもう返信の文面を考え始めていた。気になる人からのメールは、否が応でも心を浮き立たせる。