パリ第三大学、通称「パリ3(トロワ)」の「映画理論」は有名で、フランスの映画批評誌として有名な「カイエ・デュ・シネマ」の執筆陣も多く輩出している――

なんて紹介するとかなり偉そうだけど、私の場合「パリで映画を総合的、俯瞰的に学べそうな学科」を調べて受験したら、パリ1、パリ8に落ちて、なぜか奇跡的にパリ3に拾われたというだけの話。でも授業に全然ついていけず、一時はノイローゼになるかと思った。 

 

フランス語の公式資格試験DELF(デルフ)で、大学入学のために必要とされるレベルの「B2」は取得していたけれど、大学院に必要なDALF(ダルフ)「C1」は落ちた。が、学習意欲だけは買ってくれていた第二外国語の仏語の教授に頼み込んで一筆書いてもらい、なんとか滑り込むことに成功したのだ。悪あがきって大切!

 

つまり私のフランス語は学年でも最低レベルだろう。修士一年目を無事乗り切れただけで奇跡。とはいえ、一体いつになったら難解な講義をその場で聞き取れるようになるのかと、気が遠くなることもしばしばだ。

午後一は好きな講義のひとつ、アメリカンロードムービー論。でもギヨームからの返信が気になって、午前以上に集中できず散々だった。仕事中なのか、まだ返事はない。
彼は5歳上の28歳で、建築事務所で働いている。忙しいけれど、クリエイティブな仕事で楽しいんだと誇らしげに語っていた。自分の仕事が好きって胸を張って言えるのは素敵なことだけど……

「あ、ノーブル」

身の入らなかった講義が終わり、ため息交じりにノートを片付けていると、全身黒ずくめの細身の男がスッと目の前を横切り、思わず声を出していた。

なんとか源二郎げんじろう。名字は忘れた。もう一人の日本人留学生で、ソユンとこっそり「Noble(貴族)」というあだ名をつけている。いつも針金のような身体を強調する黒いタイトな服を着ていて、人を寄せ付けない孤高の雰囲気を醸し出していた。

「よく毅然と貫いてるよね」
「まぁノーブルは友達なんていなくても、既にコネがあるから……」

私たちは皮肉と称賛と羨ましさが混ざった複雑な気持ちで、足早に去っていく後ろ姿を見送る。

源二郎の親族はパリに暮らしていて、そのうえ映画制作会社に勤めているらしい。既に業界人と家族ぐるみの付き合いもあり、カンヌ映画祭にも招待されたという噂。

フランスは日本以上にコネ社会だ。教授からも一目置かれているエリート学生として、源二郎は他の院生とは別格。普段の接点もほぼない。

――同じ日本人留学生なのに、全く違う世界……

今日最後の授業は必須科目、外国語。留学生はフランス語を取る人がほとんどだ。三つにレベル分けされていて、各自で選ぶことができる。難しい授業に食らいついて自らを磨くもよし、単位を落とさないよう手堅くいくもよし。私は迷わず一番下のレベルを選んだ。

ソユンは大学院の進学準備と並行して、一年間みっちりパリの語学学校に通っていただけあってかなりフランス語がうまいのに、真ん中のレベルを選んで苦労していると聞くとゾッとする。ついでに源二郎は一番上のレベルで涼しい顔らしい。

心ここにあらずのまま「ア・ドゥマン(また明日)」と、ソユンと手を振り合った。


「お疲れー」

教室後方に陣取っているいつものグループに笑顔を向けられ、ほっと気持ちが和む。

このフランス語の授業は、他の学科に通う留学生たちと交わる唯一の場所でもある。日本人学生たちとも知り合え、情報交換や愚痴り合いもできるので助かっていた。

海外でその国の言葉を習得するには「日本語は一切使わない」と徹底するのが早いのは百も承知。でも、追いつかないフランス語に日々溺れかけていると、たまに聞く柔らかな響きの日本語は、濃度の高い酸素のごとく細胞に染みわたり、しみじみと癒やされるのだった。