発売されるやいなや重版が決まり10万部を突破するという現代の文芸界の“奇跡”を成し遂げている林真理子さんの最新刊『奇跡』。日本を代表する写真家の故・田原桂一氏と梨園の妻であった博子さんの大恋愛の顛末を、林真理子さんが本人への取材をもとに描いた事実に基づく恋愛小説です。
下世話な好奇心を刺激されずにはいられない本作を、林さんとも交流があり、歌舞伎にも造詣のあるエッセイスト・酒井順子さんはどう読んだのかーー。緊急特別寄稿をお届けします。
38年ぶりの書き下ろし小説は、フラジャイルすぎるテーマ
林真理子さんが38年ぶりの書き下ろし、というニュースを聞いて、
「すわ、何事?」
と思ったのは、私だけではないことでしょう。雑誌等に連載した原稿をまとめて単行本として刊行するというのが、作家の通常の業務パターン。対して、連載をせずに本一冊分を書き下ろすのは、大変な作業です。
しかしそれでも林さんが書き下ろしという手法で『奇跡』を書いたのは、扱ったのがそれだけ“取り扱い注意”の題材だったからのようです。
男女が出会って、結ばれる。恋愛小説の王道を行くストーリーが描かれる本書には、モデルとなった人々が存在します。それもモデル小説というよりは、登場人物が実名で登場するという、“恋愛ノンフィクション”的な書き方がなされているのです。
30代の博子と、50代の田原。主人公の男女は、出会った時点ではともに結婚していました。俗な言い方をするなら、ダブル不倫であった上に、女性側の側は梨園の妻で、男性はパリを拠点に国際的に活躍する写真家という互いに特殊な立場。
本書において、歌舞伎関係者に関しては、実名は使用されていません。博子が嫁いだのは、「関西出身の名門の家柄」である「近江屋」の御曹司「清十郎」。夫の父は美男として名高い立役の「清左衛門」とあれば、「あ……」と思う人は多いことでしょう。これは、歌舞伎の中枢と言っていい家に嫁いだ女性の話なのです。
林さんがこの本を一気に書き下ろすことにしたのには、そういった事情が関係していそうです。歌舞伎の名門に嫁いだ妻が、別の男性と熱烈な恋愛をし、やがて離婚。……という実話を連載として書いたなら、スキャンダルとして叩かれる可能性が大。歌舞伎の世界も、黙ってはいないかもしれません。本書の内容がそれほどにフラジャイルだったからこそ、林さんは静かに筆を執ったのです。
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