そしてもう一つ、彼女が地獄の体験者である証拠が、子どもたちへの「甘さ」であると筆者は考えています。

米軍提供写真より、戦時中の沖縄の様子。1945年6月3日、伊平屋島へ侵攻した米海兵隊員と、家から避難してきた住民とがすれ違う。写真:AP/アフロ

ここからは完全な推測になりますが、多くの死に直面してきた優子さんは命があるだけで十分で、子どもたちにそれ以上のことは求めていないのではないでしょうか。その代わり、生きることには人一倍執着していて、子どもたちが悩んだり困ったりしている姿を見るのが耐えられないのかもしれません。少しでも死につながる要素は排除したいでしょうから。お父ちゃんとの死別を経て、その傾向に拍車がかかったのかもしれないですね。だから、お金を与えないことで長男を困らせるくらいなら、借金をしてでも笑顔にしてあげようとした。そんな強すぎる真心が、視聴者には「甘さ」に見えてしまうのでしょう。

 

沖縄には「命(ぬち)どぅ宝」という格言があります。「命こそが宝」という意味ですが、優子さんがそれを胸に刻んでいるとしたら、お金や体面を失うことは大した問題ではないと思います。だって彼女にしてみれば、それらは「宝」ではないのですから。以前、「沖縄戦を生き延びた女性には自殺者がいない」という新聞記事を目にしたことがありますが、その命を大事にする姿勢や肝の据わり具合は優子さんにも当てはまる気がします。

米軍提供写真より、戦時中の沖縄の様子。1945年5月18日、米軍によって占領された沖縄県伊江島の避難民キャンプで、日本人の少女たちがドラム缶を割って作った桶で洗濯物をすすいでいる。写真:AP/アフロ


本土復帰50周年と『ちむどんどん』がもたらすもの
 

2022年は沖縄の本土復帰50周年という記念の年。復帰を考えるうえで沖縄戦は避けて通れないトピックですので、本土復帰がテーマの一つである『ちむどんどん』もいずれは沖縄戦に正面から向き合うのではないでしょうか。もし、優子さんの過去と絡めて描くとしたら、戦闘自体は終わっても体験者の心のなかでは戦争が延々と続いていくことを、彼女を通して知ることになるかもしれません。

沖縄戦70年を迎えた2015年、6月23日の「慰霊の日」に、沖縄県糸満市の平和祈念公園「平和の礎」の前で犠牲者に祈りを捧げる参拝者たち。写真:アフロ

余談ですが、筆者の他界した父も幼少期に地上戦を経験していて、生前は「子どもだったからおぼえていない」と体験談を話すことはなかったのですが、遺品の整理の際に書きかけの手記を見つけて驚きました。

「オジーが目の前で弾に当たって死んだ」──そこには戦争体験がしっかりとつづられていたのです。飄々と生きているように見えた我が父も、本当は優子さんと同じように心の隅に地獄の光景がずっと残っていたのかもしれません。そのような人は年々減っていく一方で、戦争の記憶の風化が危ぶまれていますが、本土復帰50周年と『ちむどんどん』に注目が集まることで少しは食い止められるのではないかと思っています。少なくとも筆者とっては、この二つが、命をつないでくれた先人に感謝しつつ、戦争の悲惨さと平和の尊さに改めて目を向けるきっかけになっています。



文/さくま健太
構成/山崎 恵

 


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