「いのち」が循環する世界の原理・原則

 

幼少時に、こうしてベッドサイドで「いのち」のことをかんがえていました。この世に存在するもの、それは植物でも動物でも、どんな些細な石でも風でも水でも砂でも、すべての存在には等価に「いのち」があり、死を迎えるとこの世のすべての存在に平等に分配されて、循環の環に入るのだろうと思ったのです。

「いのち」はすべての存在に平等に分配されますが、「受け取ろう」と思った人にしか受け取ることができないものです。そこには自由意思の余地が残されています。「いのち」を受け取るか拒否するかは自分が決定権を持ち、それは自由で強制されません。それこそが「いのち」が循環する世界の根源的な原理・原則なのではないかと思います。

死に行く人を看取ることも同じだと思います。死に行く人の話をちゃんと聞いて「いのち」を受け取る。そうすれば、死に行く人があなたの中で重なりつづける。

 

誰かが受け取れば「いのち」は続いていく


子どものときには、誰もがそうした体験をしているのではないかと思うのです。表層の意識では忘れているだけだと思います。わたしは文章を書くという行為の中で、深い意識の底へともぐり、そうした自分の核となる場所をふと思い出しました。「いのち」は集合的なものです。肉体には誰でも限界があり、それは受け入れざるをえないことです。

ただ、誰かが受け取れば「いのち」は続いていきます。「いのち」は量ではなくて質なのです。「人生が長ければいい」という話ではなく、1歳や2歳で亡くなろうとも、完結しているものです。

わたしたちは主体的に誰かの「いのち」を受け取り、そして誰かに「いのち」を託しながら重なっていくのです。だからこそ、自分だけの人生ではないことを自覚すると、人はそう簡単に死ねなくなるのではないでしょうか。